2年半年ぶりのブログ復活〜「警察官育成」のポイント

ここ2年ほどブログをほとんど更新せず、twitterに集中していました。
しかし、今年度より学部長も無事に退任できたので、今までやってきたことや考えてきたことを徐々にブログに書いていこうかと思います。そこで、このブログを復活させることにしました。

さて、最初の話題はやっぱり、警察官採用試験の話題。2年半前の記事の続きです。警察官という職業を前の記事のように理解し、大学の教育目標と関連づけて議論したわけですが、今回の記事も、その内容の延長線上にあります。

さて、警察官はここ数年不況のせいか、受験倍率がうなぎのぼりにあがっています。高偏差値大学の学生もばんばん受けてくるみたいで、ウチの学生にとっては、なかなか苦しい戦いを迫られているというのが実情です。

そんな中、今年は主に私のゼミの学生が頑張っています。まだ、最終合格は出ていませんが、ウチのゼミの約2割の学生が各都道府県県警の1次試験を突破中です。これは、警察官試験を受けた学生のうちの6割以上という好成績。結果が出ればいいなあと思っています。

さて、この警察官採用試験は、都道府県によってやり方が若干異なるもの、基本的には、
① 教養試験(筆記試験、一般試験と称する場合もある)
② 小論
③ 体力試験・適性テスト
④ 面接
の4つの方法の組み合わせで行われています。

なぜ、この4つの方法で採用が行われるのか、ということに関しては、前の記事を読んでいただければ、お分かりでしょう。

前の記事をふまえて端的に言えば、教養試験は、警察組織の「幅の広い仕事」に対応し「幅広い知識」を獲得し続けるための「学習能力(フレキシビリティ」と「訓練可能性(トレーナビリティ)」を問うているわけです。

現在、警察は、刑事警察的機能から行政警察的機能に重点を移しつつあります。それは、ここ10年で日本社会において防犯の考え方が転換したことと関係があります。もちろん、実際には「検挙から防犯へ」という考え方に切り替えることは容易ではありません。「やっぱり検挙こそ最大の防犯だよ」と不満そうに言う現場の警察官もいるようです。

しかし、他方では、新しい警察の課題に柔軟に対応している警察官もたくさんいます。そうした人たちの視野の広さや知的好奇心の高さはなかなかなものです。そうした警察官の能力をみるにつけ、警察官になって何年経とうが、「今まで役に立たないと思っていた知識」や「今までとはまったく正反対の立場に立つ知識」を柔軟に吸収できるかどうかが、警察官のキャリアにとって、結構大切な能力ではないかと思うようになりました。

そして、こうした能力は、原理的には教養試験で評価可能です。確かに教養試験には、数的判断などの論理的思考を問う問題も多いのですが、それに加えて、文学史などの「おそらく仕事では全く役に立たないと思われる知識」や法律・経済・政治・国際関係・歴史等の「幅の広い(基礎的な)知識」を問う問題も多いのです。こうした幅広い知識に対する学習能力を、大学4年生になっても維持し続けることは、警察官になって以後の成長可能性(組織から見れば訓練可能性)を予測しているといえるのです。

もちろん、現実には、教養試験については公務員予備校でテスト対策をする人がほとんどでしょうから、教養試験を通じて、知的好奇心や視野の広さがわかるというのは楽観的に過ぎます。そういうわけで、最近の採用試験では面接を重視するようになっています。個人的には、予備校で対策しようがない教養試験を開発すればよいと思うのですが、そこまでの大転換は難しいようです。

さて、次は、小論文です。警察官試験では、全国どこでも必ず小論文が課せられます。その理由は、もちろん、警察官にとって、「書類作成能力」はかなり必要度が高い能力だからです。

警察官は調書作成のために客観的かつ論理的な文章力を要求されます。刑事ドラマは犯人を捕まえれば、あとはエピローグですが、実際は、犯人を捕まえたあとで、犯人を有罪にするための証拠固めや調書作成等、膨大な書類作成作業が待っています。新米警察官であれば、今まで対応したことのない新しい案件にぶつかった時に、「自分はこの事案で調書が書けるのか?」と不安になるくらいだそうです。

さらに、他の自治体等との連携や人事交流が増えるなかで、企画書作成の機会も増えています。自治体に出向すれば安全・安心まちづくり条例などの策定に関わることもあります。小論文試験によって、こうした論理的な文章作成能力と課題解決能力を問うているわけです。

その小論試験、実は大きな特徴があります。それは次の記事で書くことにします。

というわけで、今回の記事の内容をまとめると、「警察官採用のプロセスで問われるのは、特定のスキルではなく、汎用スキルだ」ということでした。古い言葉で言えば、「つぶしの効く力」であり、最近の言葉で言えば、「ジェネリック・スキル」です。中教審の学士力答申でも、「汎用的技能」と言われているものです。つまりは、警察官とは、決して特殊な能力を持った人がなる職業ではなく、日本の多くの会社で共通する人材が求められているのです。

だからこそ、警察官になりたいという学生は、「大学の勉強をきちんとすること」がいかに大切か、ということを理解する必要があるのです。

警察官という職業とは何か?

学期中はほとんど記事が書けないくらい忙しい毎日でした。春休みに入って、ふとエアポケットのようにスケジュールが空くときがあります。そんな時に、久しぶりの記事を書こうと思います。

さて、わが大学は、昔から警察官を多数輩しています。学生数も1学年600名と少ないわけですが、全国警察官合格ランキングにも登場するくらいだし。福岡県警にはOBが300名を超えるくらい在職中だそうです。

そして、警察官は公務員という地位だけに、学生の間でもますます人気が高まっています。他大学でも、警察官合格をうたっているところは増えてきています。ところが、警察官をどう育成するかということになると、多くの大学ではエクステンションセンターの「公務員講座」受講特典というレベルを踏み出せていません。筆記試験、小論試験、体力試験、面接、といった採用プロセスがある以上、警察官に合格するための一番の道は試験対策と思っている人も多いでしょう。そのため、専門学校で勉強すれば、警察官に合格すると思っている人があまりにも多いようです。

ところが、こうした考え方を警察自体は歓迎しているとは思えません。最近、採用試験のうち筆記試験のウェイトを軽くして、面接重視に移行している県警が増えてきているのがその証拠です。専門学校で筆記試験対策だけやってた人には、警察官になってもらいたくないのです。筆記試験だけクリアしても、警察官として生きる覚悟がないと、警察学校で脱落してしまいますし、そういう学生は警察官になりたいという「覚悟」や「意志」が足りないという声も聞きます。

では、警察官になるためには、「覚悟」だけでよいのでしょうか? その他、必要な能力とか実務的知識などは存在するのでしょうか? 本学でも、元警察官の実務家を本学では特任教授として招聘しています。外部の方から「捜査術とか逮捕術とかを教えるのか?」なんて聞かれることもあります。しかし、それはありえません。

もともと、僕は「公務員専門学校に通ったって、学力や適性のない人間が警察官になれるわけがない」と直感的に思っていました。最近、その理由がはっきりとわかりました。それは、端的に言えば、警察官とはスペシャリストではなくジェネラリストだからです。福岡県警には1万1千人の警察官がいます。そして、警察が日本の大組織である以上、典型的な日本の雇用制度となっています。つまり、警察官とは、日本の典型的な企業の社員と同じキャリアパスを歩むのです。

これは本学の卒業生を見てもわかります。警察官となって卒業後、まずは現場の交番勤務・駐在所を5〜6年、拘置所担当等を経て昇進し、自分が希望する刑事課とか、交通課、あるいは生活安全課などに配属されます。そこで一旦、キャリアを積み重ねていくわけですが、その後、本人が優秀であればあるほど、本人の希望とは別の部署に移動させられる可能性が高まります。「刑事になりたい」と思って警察に入ったとしても、40代には「総務に行け」とか「別の県警に出向せよ」とかあるいは「県庁に出向せよ」といった、いわゆる管理職への道が待っています。

例えば、刑事部と総務部では仕事に天と地ほどの差があります。あるいは刑事部と生安部でも考え方は全く逆といってよいほどです。部署ごとに大きく仕事の性質が異なるなかで移動していくわけですから、仕事はOJTで覚えます。どれだけたくさんの部署を経験し、どれだけたくさんの新しい仕事をこなすかが、本人の成長と大きく関わります。これこそ、日本型組織で働くジェネラリストの典型的なキャリアパスです。

こうしたキャリアパスにおいて必要とされる能力とは、「基礎学力」と、仕事を通じて成長できる「学習能力」や「適応力」といえるでしょう。これはいわゆる「偏差値」と相関する可能性が高い能力です。ですが、本学の警察官に合格する学生はその「学力」と「学習能力(=コンピテンシーと言い換えられる)」を在学中にどんどん伸ばしていっています。

同時に、「警察一家」という言葉があるように、警察官同士の精神的な結びつきは非常に強いわけで、まさに家族ぐるみでの付き合いがあるわけです。親が警察官だと子供も警察官になることも多いようです。つまりは、強い精神的一体感によって結ばれた「メンバーシップ型」雇用が警察官の特徴なのです。

実際、「よい警察官とは何か」という問いに対して、「警察精神を持つこと」という答えは、多くの警察官にすんなりと受け入れられるでしょう。警察精神とは、初代警視総監である川路大警視の語録であるとか、そういった警察官に関わる職業倫理のようなものです。

メンバーシップ型雇用制度のもとでの、特定の職業倫理に裏打ちされたジェネラリストとしての警察官になれるかどうかは、その「組織風土」に馴染めるかが最大のポイントになります。だから、「能力」だけでなく「人物」が問われるのは、当然のことです。そして、これは日本企業と全く同じことです。

こうした実情は、学生が考える「警察官像」とは大きな違いがあります。多くの学生は警察官をジョブ職として捉えています。学生に「どのような警察官になりたいか」と訊ねると、「よい刑事になること」「パトカーで交通安全を守ること」といった答えが多いのがその証拠です。警察官とは特殊な能力と権力を持った専門職だと思っているのです。それは採用後10年間程度の暫定的な目標に過ぎないわけで、実際、生涯パトカーに乗る警察官は「出世しない警察官」といえなくもないわけです。

そうは言っても、警察の役割は「市民の安全を守る」ことであり、そのための警察のノウハウというのは、一朝一夕に身につけられるものではないだろう、そこには何らかの専門性があるだろう、という考え方もできなくはないでしょう。もちろん、そうなんですが、そもそも「市民の安全を守る」ための方法およびそれに伴う政策は日々変化しています。トップが変われば政策も変化するし、時代が変化すれば、これまた政策は大きく変化します。その都度、警察官の職務に必要なスキルも日々変化します。したがって、30代半ば以降の警察官に必要とされる能力とは、新たな課題に取り組むことのできる柔軟性や学習能力となるわけです。

つまり、日本においては、警察官を育成することは職業教育として成り立ち得ないのです。高校の先生方からは、「何を教えたら警察官になれるのか」と聞かれますが、「警察官という目標を持ち続けながら、大学の勉強を通じて『読み書き』能力を鍛え、さらには『意欲』や『学習能力』を高めることです」と言います。そして、僕が最も必要だと思っていることは、「警察官とは何か? 警察とは何か? 警察官は何をすべきなのか」を具体的に考えられるようになることです。それこそが、警察官を生み出すキャリア教育だと考えます。

結局、警察官に必要な能力とは、基礎学力と体力と意欲であることは、今も昔も変わりがありません。その点で言えば、大学としては、専門科目を通じて学生のリテラシーを育成し、教養教育を通じて広い視野を獲得するという、あまりにもオーソドックスで地道な方法しかありえないのです。こうした地道な勉強に耐えられること、それこそが警察官の適性であり、同時に、それは日本の企業がほしい人材と一致するのです。だから、「警察官になれる人材とは、日本企業における汎用的な人材と一致する可能性が高い」といえます。警察官志望者は、就職活動をするとすぐにどこからか内定をもらえます。4年間目標を持ち続け、勉強をきちんと続けた「根性」は、警察だけでなく、多くの企業からも評価されるのです。

本学が多数の警察官を輩出してきた歴史を振り返り、なぜそのような人材を育成できたのかを考え、実際に警察官になった卒業生たちが在学中に行なってきたことを調査すること。これって大学の教育目標を定める上で、ものすごく重要なことじゃないかなと思っています。最近は、そんなことを考えています。

常見陽平さんに来ていただいた

久しぶりのブログです。

さて、本日は、『くたばれ!就職氷河期』の常見陽平さんに講演に来ていただきました。常見さんは、twitter阿部謹也先生の思い出を交換し合ったことがきっかけで、そこから講演にお呼びした次第。個人的にもお会いするのをとても楽しみにしていました。

講演会はとてもよい雰囲気で盛り上がりました。学生の動員はほとんどなきに等しかったのだけれど、結局、教職員合わせて100名程度が参加。「九国大のための就活12大理論」といった仕込みまでしていただいて、学生のテンションは一気に上がったような気がします。なによりも、トークセッションの時に学生の皆さんが積極的にがんがん質問していたのがとても印象深かったです。

講演を聞いて思ったこと。

・就活には企業研究、業界研究は不可欠なんだけど、これって「社会の仕組みを自分で調べる」ってこと。つまり、1・2年生でトレーニングとしてやっても十分よいなと改めて思いましたね。例えば、ファミマでバイトしてたら、ファミマの仕組みってどうなってるのかとか、ファミマのSVってどんな役割を果たしているのかとか、ライバルのセブンとは何が違うのかとか、あるいはファミマの歴史とか、いろんな興味が出てくると思うのです。それをきちんと調べるようにすると、アルバイトが単なるバイトじゃなくて社会に興味をもつ第一歩となる。自分の社会体験をベースにさらに突っ込んで調べるっていうスタンスを育成する機会があってもよいかなと思いました。そういうのって2年生ぐらいの科目でやってもよいのかも。

・その意味で、ある種のPBL(Project Based Learning)はキャリア教育の一つに成り得るなと。常見さんが懇親会の時、ある女子大で「トマト鍋を女子大生に広げる方法を提案しろ」という課題を出したという話をされてました。これって、先般の教員研修で、野の葡萄の社長に来てもらってやったことと同じ。これまた「社会に興味をもつ・社会を知る」というきっかけづくりになると思った。

・履歴書とは「解像度の高い自己紹介」という言葉が印象的でした。で、そういう解像度の高い自己紹介を具体的に文章化するトレーニングってきちんとやる必要があるなと。履歴書添削って、講演でも言われたようにピア形式でやってもよいし、教員がもっと関わってもよいんじゃないかと。具体的な場面での具体的な行動を言葉にするコツって、指導するのは、教員にとってはそんなに難しいことじゃないはず。講演で紹介していただいた10大ニュース形式もすごくいいなあ。


ともあれ、いろんな感想をもちましたが、結局、大学としての就職支援とは、学生に目の前の勉強にきちんと向かわせること、授業科目を通じて学生の基礎学力・能力を引き上げること、社会に関心を持たせることの3つがとっても重要だと改めて思いました。そしてそれは、大学本来の教育機能であるわけで、キャリア教育というのは、ある意味、大学として当たり前のまっとうなことを、学生が多様化してようがなんであろうが、きちんと丁寧にやることだと理解した次第です。


アンケートを読むと、こういうのをまたやってくれというリクエスト多し。僕が普段授業やゼミで伝えたいと思ってる内容がかなり含まれていて、「我が意を得たり」とうなずくことが多数ありました。で、そういう思いを、やっぱり常見さんのような方に言っていただくと説得力が違うようです(笑) 外部の方にそういう話をしてもらうのって大事ですね。

ともあれ、遠いところを来ていただいた常見さんには感謝してもしきれないです。講演会が終わったあと、懇親会で学生の履歴書を添削していただいたり、いろんな質問に最後まで丁寧に応えていただいたり、横で見ていて感激しました。伝える側が学生と真摯に向き合うからこそ、学生も学ぼうという気持ちが高まってくるのだと実感。こういう講演を単発で終わらせるのではなく、教育改革に繋げないとと思った次第です。


個人的には、大学時代の◯◯キューソ先生をめぐる大騒動事件が、プロレス研究会、そしてその真中に常見さんがいたということが15年目にして判明したことが印象的。いや、当時とんでもない英語の先生がいて(いまだと完全なアカハラ)、それを糾弾するポスターが学内で出回ったことがあるのです。で、それが自治会新聞とかに飛び火したなあということも思い出したり。

他にもいろんなことをお話ししたのですが、もっといろいろ伺いたかったなあ。またお会いしたいです。

(私論)キャリア教育とはこんな意味で捉えられないか

今日は、高校の進路指導の先生方を招いての研究会が大学で開催された。とくに商業高校の先生の発表では、職業教育の点から見て、非常に参考になる取り組みを紹介され、大変面白かった。

その後、先生方と懇親会。話をしているうちにキャリア教育がなんなのかということについて、ぼんやりとある考えが浮かんだ。今回はその内容についてメモがわりにエントリーを書いてみたい。

大学のキャリア教育とはコアカリキュラムの中で実現すべきことというのは、最近(詳しくは語らないが)twitterのフォロワーの方々のおかげで明確に意識できるようになった。自分なりの言葉でいえば、コア・カリキュラムの科目を履修する中で、学生が自らの学力を伸ばし、その結果、有り体に言えば、「自分が目標とする、あるいは夢でしかなかった職業につけること。または自分が思ってもみなかった会社に就職できること」。そういうことを実現できるのがキャリア教育なんだろうと思う。

で、そういう観点から、最近、本学部の1年生に言うことがある。「大学の勉強とは何か。すべての科目、すべてのゼミでやってることに大きな意味がある。それは単位をとるためとか卒業するためという問題ではない。講義やゼミを受ける中で、今まで読めなかった文章が読めるようになり、いままで書けなかったような文章が書けるようになり、いままで考えられなかったようなことがきちんと論理立てて考えられるようになり、いままで話せなかった内容を話せるようになる。それこそが勉強の目的である。そうなれば、就職活動の時に、エントリーシートがきちんと書け、グループディスカッションでも立派と話すことができ、グループの参加者が言うことをきっちりとまとめられ、面接でも堂々と自分が勉強してきたことを話しできるようになる。つまりは、大学の勉強とはあなたがたが就職活動で勝つために4年間かけてやることなのだ。さらに、あなたがたは大学時代にはじめて正しい勉強のやり方を身につける。それは自分に与えられるもの・自分の周りにあるものすべてを利用して自分で勉強するという姿勢である。こういう勉強のやり方が身につけば、就職後もあらゆる機会を捉えて自分で学び続けられる。その結果、当然出世する(笑)。自分が考えもしなかったような地位に昇進する。そういうことのために大学の勉強はある。また、大学自身もあなたがたにそういう力がつくようにこれから改革を進め、すべての教員がすべての授業の内容を改善していく。まだ大学の教育はあなたがたにとって不満を持つ内容があるかもしれない。しかし、すべての科目・ゼミをそういう気持ちで勉強してほしい」

同じことを、高校の先生は次のような表現をした。「高校生に伝えていることは、勉強とはセンター入試で得点をあげるためだけにするものではない。社会に出て役に立つことだから勉強すべきなのだ、と生徒に思ってほしい」と。

つまり、キャリア教育とは、勉強の目的を、きわめて近い目標を達成するためにあるのではなく、もっと遠くに置くための方法といえないだろうか。目の前の「単位をとる」「卒業する」ということではなく、長い将来を射程にいれて、生涯役に立つものだという意識に変えていくことと言えるのではないか。そして、それはもともと、多くの人にとって「勉強とは何のためにするのか」という原点に立ち返ることではなかろうか。生徒・学生に、勉強とは大人になって社会できちんと生きていくためにするものだ、と理解させることがキャリア教育の目的ではなかろうか。

そのように考えると、キャリア教育とは、我々のような大学にとって、今の多くの学生が持ってしまっている狭い勉強観・学習観の転換を促すものであり、同時に大学教育の意味の転換を図るものだとは言えないだろうか。「勉強とは社会で役に立つ人間になるためのもの」というのは、思い返せば、僕が小学校や中学校の時には先生から言われたことのように思える。こうした考え方は、多くの学生が勉強から逃避している現状において、今一度、多くの学生にまず身につけて欲しい勉強観ではなかろうか。そして、学生にそう実感させられるような内容の講義を大学が提供することなんだろうと思う。

阿部謹也ゼミの思い出

僕にとってゼミとは大学生活のすべてといってよいほどのものである。大学生活や大学の勉強を語る上で、自分が経験したゼミを抜きに議論することはできない。そこで、少しまとめて書いてみよう。この記事は大学2年のゼミの思い出だ。

ゼミ旅行の記事でも書いたが、一橋大学はゼミの結束力が非常に強い。僕が学部生時代だった20年前にすでに1・2年を対象とした基礎ゼミがあったし、3・4年ともなれば全員がどこかのゼミに所属する。講義は1度も出なかったが、ゼミは1度も欠席しなかったというものがごろごろいるくらい、大学生活はゼミ中心の生活になる。一橋大学オリジナルの言葉もある。「ゼミテン」とはゼミのメンバーのこと(ゼミナリステンつまりゼミ生のドイツ語の略語のことか?)。ゼミの幹事は「ゼミ幹」、ゼミのコンパは「ゼミコン」。「ゼミ合宿」は当たり前のように行われ、神戸大・大阪商大・一橋大の「三商大ゼミ」は毎年どこかの大学の持ち回りで実施される。先生との関係も非常に濃いものとなり、自宅に呼ばれたりとかも当たり前。卒業後は、同窓生に会うと、「何年卒?」ではなく「何ゼミ?」と誰もが問う。同窓会はめったにやらないが、ゼミのOB会はどのゼミも頻繁に開催されている。

善し悪しは別として、これは一橋大学に確固として埋め込まれている伝統だ。そして、先生たちもこうした伝統を当たり前のように受け入れている。多くの先生方が、基礎ゼミ、学部ゼミ、院ゼミと年間3回は学生と合宿に行くことを当然と思っているのである。東京の大学で、しかも社会的に著名で多くの仕事をこなしている先生方が多い大学では希有な事例ではないだろうか。こうしたことが可能なのは、おそらく教員の半数が一橋出身者で占められていることが大きいだろう。自分たちがそういう教育を経験しているのだから、学生に対してもごく当たり前にそういう風に接するのだ。

そして、一橋の特徴として、多くの先生たちがいい意味でのリベラル(つまり自由主義個人主義的)な考え方を持っていたことがあげられる。その代表とでもいうべき人が僕が基礎ゼミで2年生の時に1年間だけお世話になった阿部謹也先生である。

阿部謹也の名前を知ったのは予備校時代だった。駿台予備校京都校の世界史の授業でちょうど中世ヨーロッパに差し掛かったとき、授業が終わってから担当していた中谷先生に「ヨーロッパ中世に興味があるので、勉強になる本があったら教えてください」と質問したのである。僕自身、ヨーロッパとは様々な縁があり、キリスト教の環境で育った経験からも、ヨーロッパ中世を知ることは自分のアイデンティティとも関わることのような気がしたのだ。そういうと、中谷先生は、即座に鯖田豊之と阿部謹也をあげてくれた。

阿部謹也は『ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)』と『自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)』を読んでしびれてしまった。通常の歴史では注目されることのない、しかし伝承の中で色濃く残されている虐げられた人々、差別された人々の歴史、ヨーロッパの基層とでもいえる庶民のリアルな生活が伝わってくるような内容、聖と俗というキリスト教の大テーマとキリスト教が導入されることで聖なる仕事が卑俗な仕事へと転嫁された歴史、等々。ちくま書房などから安野光雅の装丁でカッコいい本を次々と出版され、社会史という当時の先端分野を開拓された出版界のスターの一人だった。

僕は法学部志望だったし、歴史を専門にやりたいとはとても思わなかったけれど、「この人の授業をとりたい」と思い、志望大学を変更し、かろうじて合格し、晴れて小平(!)の門をくぐったのだった(蛇足:当時は小平キャンパスがあり、1・2年生は小平のぼろぼろのキャンパスで勉強する。ここは今から考えると信じがたいひどい環境だった)。

阿部謹也先生を最初に見かけたのは教務ガイダンスの時。小平講堂に集められた1年生に対して、社会学部長だったか教務部長だったか、ともかく他の3学部の先生と並んで話をしてくれたのだった。他の先生が話した内容は全く憶えていないけれど、阿部謹也先生が話した内容は今でもくっきりと覚えている。「カリキュラムなんかにこだわる人間はつまらない。学問とはみんなには見えないけれど、大学をこえたネットワークでつながっているのである。だから他の大学の授業を聴講に行きなさい。学部の時間割なんかに安住してはいけない。自分から学問を求めなさい。」とあの早口の口調で言い放ったのである。繰り返して言うが、時間割ガイダンスの時間でである。新入生がみんなあっけに取られたのは言うまでもない。

「やっぱりこの人はカッコいい人だ」としびれ、それから阿部謹也の本を読む日が続いた。そこから、中世ヨーロッパつながりで、『薔薇の名前』に飛び、記号論つながりでソシュールに飛び、バフチンに飛んだ。1年次の夏休みにミハイル・バフチンの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化 』と『言語と文化の記号論』を読んだのは、阿部謹也の影響も一つにはある(もうひとつは駿台予備校の表三郎先生だ)。思い返せば、よくあんな本を1年生で読んだなと思う。予備校と大学の先生というのは僕にとって、そういう背伸びをさせる存在だった。

さて、阿部ゼミに入れたのは2年次の時。当時は隔年で小平ゼミとして開講されていたように思う。一橋の特徴として前期は開講されるどのゼミにも学部関係なく入ることができた。喜び勇んでゼミに参加した。キリスト教の告白制度と愛の関係について書かれた文献をみんなで読みながら、先生の話を聞くという形式だった。文献は、英語が少々得意だと思っていた自分には全く歯が立たず、しかもすらすら訳していく学生がいたものだから激しく打ちのめされてしまい、ゼミは欠席しがちだった。ただ、文献の内容にかかわらず、先生の話を聞くことができるという意味では面白かった。先生は毎週、自身が書き留められた京大カードに目を通しながら、中世ヨーロッパのカトリックの告白制度こそが西欧の近代的自我を形成したのであり、それは愛の誕生と軌を一にしているという内容の話をいろいろしてくださった。

また、阿部先生は、当時から日本の「世間」というものに対して、きわめてきびしい視線を投げかけていた。「世間に申し訳ないとよくいうけれど、あれは具体的な損害を与えたことを申し訳ないと言ってるのではなく、個人の集合体である社会とは別の『世間』という実態のないものを騒がせたこと自体が問題だということなのだ」と、その後の阿部謹也を代表する世間論をちょうど論じ始めた時期だった。

我々は、「阿部先生は面白いこというなあ」とぼんやりと思っていたり、また、「ヨーロッパ的な考え方を身につけると、日本の社会に対する違和感を強烈に感じるんだなあ。これって日本の知識人の宿命なんだろうなあ」などと思っていたが、先生は毎回真面目に、ヨーロッパ中世においてキリスト教との関係の中で「個人」や「自我」が誕生したことと、日本のあいまいな感覚を対比し、日本も「世間」という考え方がなくならなければ責任ある社会にならない、と主張されるのだった。

結局、ゼミでのこうした先生の話は、実はその直後に出版された『「世間」論序説―西洋中世の愛と人格 (朝日選書)』や『「世間」とは何か (講談社現代新書)』に書かれた本の内容だった。僕らは、先生から直接本にする前のアイディアレベル、原稿レベルの話を聞かされたのだった。これは、今ではきわめて貴重な経験であったことが分かる。阿部先生は、「大学教員とは知識を生み出し、それを学生に伝える存在」ということを身を持って示していた人だった。また「学問とは、自分の内的必然からやるものでなくては意味がない」としばしば語っていたことからも、学問や日本社会に対する鋭く批判的な視点を持ち、しかもそれを乗り越えるために不断の努力を続けていることを身を持って我々に伝えていたのだった。

阿部ゼミは、夏休みに軽井沢でゼミ合宿を行った。阿部先生からは「歴史学を勉強するということは自分の中にある歴史を発見するということである。であるから、自分の歴史を語ること」という課題を出された。それがゼミ合宿のテーマである。歴史学を勉強するというスタンスと、自分の経験を学ぶというスタンスは通常は全く別個のものと考えられている。しかし、阿部先生は、研究テーマを”自分事”として引き受けられなければ、研究する価値なんてないとおっしゃっていたのだった。こうして、我々は中軽井沢の小さな旅館にみんなで行き、夜は先生を囲んで、ひとりずつ、自分がどういう人間であるか、どういう歴史を持っているかを語ったのだ。

その時の一晩は今でも強烈に覚えている。友人たちが自分自身と向き合い、自分を形成してきたものを語ることで、自分を見つめ直す。他の人間は、その場に居合わせることで、友人をより深く知ることになる。阿部先生はみんなの発表に対して、あまり多くをコメントせず、「ふんふん」とただうなずいていたような気がする。今から考えると、こういう自己の発露はしばしば自己啓発セミナーに見られる手法と同じである。ただ、阿部先生は、我々の心理を同調させようなどということはまったくせず、その夜は非常にクールに過ぎていったのだった。阿部先生は「旅行に行って寝る人がいるがあれはオカシイ。旅行に行ったら普通寝ないでしょう」などと(ちょっと酔っていたのか)変なことを口走っていたが、あれは多分、本当のことのような気がする。

2年ゼミはあっという間に終わり、我々は3年になった。その後、阿部先生は学長になり、大学改革を進める側になった。当時一橋大学は、学長選挙規定を含め、学生自治会との歴史的に複雑な関係を解消しようとしており、しばしば団交が行われていた.その場に僕も出席したが、学生たちが阿部学長に対してあまりにひどい言葉を投げつけるのでうんざりし、それ以来、そういった場に足を向けることはなかった。ひとつだけ覚えているのは、学生が「いったい改革とはいつ終わるのだ。いつまでも改革を言い訳にしてるではないか」と言ったところ、阿部学長が強い口調で「改革とは終わらないから改革なのである。改革に終わりはない。改革を続けることは大学の存続と同義なのである」と言われたのは今でも覚えている。

その後、学長を二期やる中で身体を壊され、僕が大学院時代にお見かけしたときはずいぶん憔悴された印象を持った。それから何か近寄るのが申し訳ない気がして、話しかけるのをはばかっていたが、その後、無事に退職され、他の大学でも学長を務められたという。一橋ではキャンパス統合やカリキュラム改革など、大学行政の面でも傑出した業績を残され、それがやはり寿命を縮めたことは容易に予想できる。

実は、僕自身は先生がある意味怖かった。阿部先生の本は読んだけれど、阿部先生が指定する文献は読めなかったからだ。なので、自分から先生と親しく話を交わしたという思い出はない。ただ、僕にとっては、「与えられた枠組みの中で安住するな」という最初の一言が今でも最も印象深いのである。

新米教員、新入生研修を乗っ取る(その4)〜研修を導入するだけじゃダメだった

前回の記事の通り、法学部のフレッシャーズ・ミーテイングは、実施している教員と学生が誇りに思うほどの高度な内容へと進化していきました。毎年、少しずつレベルアップしていった結果、他の学部が真似しようと思っても、簡単に真似ることのできないレベルまで達しています。

ところが、2008年まで、肝心の1年生の退学率は下がりませんでした。なんと、この研修を導入した2004年は6%もの退学率を出してしまったほどです。その後も5%前後を推移します。これは1年次の退学率としてはきわめて高い数字です。あんなにフレッシャーズ・ミーテイングではみんな仲良くなったのに、退学率は下がらないのです。春学期はまだしも秋学期に大量に学生が退学していきます。FMの効果は半年も持たないのです。本当に謎でした。

他方、僕自身のゼミでは、当時から退学者はほとんどありません。フレッシャーズ・ミーテイングできっちりと人間関係を築いたうえでゼミをやることで、1年次で退学した学生は思い出せないほど少ないわけです。入門演習では学生たちをグループワークでしっかりと鍛えます。学期末に発表会をやるときには上級生たちが押しかけ、1年生が泣くまでつっこみまくります。成績優秀者のグループを担当していたということもありますが、そんなゼミで1年生が辞めていくというのはよっぽど特殊な事情以外ありえません。

おまけに、1年次に僕の言う事を全く聞かず手を焼いた学生でも、4年次になって「先生、入門演習でやったことって、企業になんて説明すればいいんですか?」なんて聞いてきます。、就活の時期になって、1年次のゼミでやったことがいかに重要だったかということに気づく学生もいるのです。

それにしても、なぜ他のゼミで退学者が出てくるんだろう? 僕のゼミと他の教員のゼミと何が違うんだろう? 本当に疑問でした。

そして、僕が学部長になり、初年次教育に力を入れ始めた2008年。入門演習では、すべてのゼミで合同プレゼン大会を実施することになりました。ゼミでの学びをグループでプレゼンしようというものです。他の先生たちにとってみると、そんなことやったことないわけですから、とってもきつかったみたいです。

その一方で、グループワーク研修のために、久留米大学の安永悟先生をお呼びして講演会を行ないました。講演の内容はとても充実したものであり、僕自身、安永先生が実践されているほどかっちりとしたグループワークやったことがなかったため、大変勉強になりました。

そして、最も衝撃を受けたのは、安永先生に、PAを導入した研修についての感想を伺った時です。安永先生は即座に「入学後研修で伝える学びのあり方がその後の学びと連動しているのであれば賛同します」とおっしゃいました。

衝撃の一言です。そして、この一言ですべてが氷解しました。僕自身は、フレッシャーズ・ミーテイングで新入生たちに、「仲間を作ってこそ学びが始まる」「ばかばかしいことをみんなで一生懸命やることって重要」「チームで課題を解くのが大学の勉強」「答えのない問題を一生懸命考えることが学問」「みんなで体験したことを言葉で共有していくことが大切」というメッセージを送っていました。

僕のゼミでは、こうしたメッセージはそのままゼミの学びと連動しています。ところが、他のゼミでは、フレッシャーズ・ミーテイングで伝えるメッセージと、ゼミの学びの価値観が大きく乖離していたんだということにあらためて気付かされたのです。他のゼミでは、教員が一方的にだらだらとしゃべるだけだったり、数名に課題を与えて各自がそれを調べてきて発表するなど、およそ「チームワーク」などとは無縁のゼミだらけだったのです。

つまり、フレッシャーズ・ミーテイングで伝えた「チームワーク」とか「自主性」とか「問題解決」いう価値観と、実際の演習の価値観が断絶していたのです。これだと新入生はダブルバインドの状況に置かれてしまいます。「研修で教わったことと、実際の演習での雰囲気、どちらが正しいの?」というわけです。

こうしたダブルバインドな状況が当時の新入生たちにどれだけの負担やストレスを与えていたことでしょう。もしかすると、研修をやらない方がよっぽどよかったかもしれません。

ただ、フレッシャーズ・ミーテイングで打ち出した価値観は、その後、僕が学部長になり、入門演習の改革のベースになりました。他の教員に改革の方向性を納得してもらううえで、フレッシャーズ・ミーテイングでやってきたことは大きな役割を果たしたのも事実です。そういう見方からすると、無意味ではなかったのかもしれません。

ともあれ、フレッシャーズ・ミーテイングの意味は、入門演習の改革、および学部全体の改革が行われることで、始めて生きるようになりました。2009年のゼミでは、全ゼミ共通のプログラムを実施しました。不慣れな教員も多く、しかも、ゼミ編成で様々な問題をはらんでいたため、学びの成果自身は十分得られたとは思えません。ところが、この年の1年生の退学率は2.42%と過去最低となるのです。少なくとも、フレッシャーズ・ミーテイングの価値観とゼミ活動の価値観が連動したことが大きかったのではないかと思います。

結局、大学の改革というのは、一点だけを変えても成果が出るどころか、逆の作用を生み出すことさえあるということに、気付かされました。改革が持つ規範や価値観点は全体をカバーしてこそ意味があるといえます。研修の導入については明らかにそうです。

同じことは、企業研修でも言えるはずです。新入社員に対してウチの学部でやっているような研修をする企業は多いのですが、研修が伝えるメッセージと職場の雰囲気が乖離していれば、その研修は、職場へのソフトランディングや定着ではなく、逆の作用を生み出すことは容易に想像できます。

ともあれ、話を戻すと、大学改革で導入する諸取組が持つ規範や価値観とは、本当はディプロマ・ポリシーから導きだされるべきなんだと思います。企業の場合だと、研修の内容はあくまでも企業の理念からブレイクダウンされたものでなくてはならないのでしょう。

こうして考えると、研修を外部委託することの危うさに思い至るはずです。昨今、キャリア教育などで、多くの大学で外部委託が増えています。要注意だと思います。内部での改革を実施せずにキャリア研修だけ外部まかせというのは、危うい結果をもたらしかねないと思います。この点、本学も気を引き締める必要がありそうです。

新米教員、新入生研修を乗っ取る(その3)〜新入生研修は導入したけれど。。

今回はさくっと短い記事です。


法学部でPAを最初に導入したのは2004年のフレッシャーズ・ミーティング(FM)でした。ちょうど「FMを担当してくれ」と当時の学部長に依頼されたことを幸い、僕がFMの中身を変更できるチャンスに恵まれたのです。

ただし、PAロープコースがある施設はないし、ファシリテーターを呼ぶことも無理。であれば、FMに協力してくれる学生(協力学生)を鍛えて、彼らがアクティビティをファシリテートすればいい。そう考えて、学生たちと事前準備を進めることにしました。学生たちに「こういうことをやりたいんだ」と伝えて練習したり。でも、みんな最初は半信半疑。「これやって何になるの?」っていう感じでした。

ところで、こうした突飛なことを僕が法学部でするっと実現できた背景には、退学者問題がありました。当時の法学部の退学率は今の2倍以上。なんと1年間で法学部から100名以上の学生が退学していたのです。当時は、退学問題にどう取り組めばよいか、アイディアを誰も持っていませんでした。そんなところに「入学直後に入門演習で仲間づくりができたら、退学問題に歯止めがかけられるかもしれない」という提案を若手である僕が行なったのです。そりゃ、学部としては反対する理由はありません。ただ、以前からのFMの責任者の先生は、僕がやろうとすることに(当然ですが)強烈に反対していました。そういう反対意見を当時の学部長はあっさり封じ込め、僕の提案を強く支持してくれたのでした。あの時、学部長が僕を支持してくれなければどうなってたんだろうと思ったりします。

さて、FM当日、PAのアクティビティをいくつか導入し、新入生たちは次第に打ち解けた様子になっていました。この時の研修は、今から考えると本当に稚拙な内容でしたが、それでも思い出深いものがあります。

その後のFMでしばらくやった「全員トラストチェア」もこの時が最初です。全員でやってみたらどうなるだろう、と偶然思いついたのですよね。

ただし、この時の研修に対しては、新入生も教員も賛否両論でした。「面白くない」とか「意味ない」といった、僕の心が折れそうなコメントもいっぱいあったのでした。ただ、ある同僚が、アンケートを分析すると、FM全体の満足度とアクティビティの満足度が相関してるから、FMの満足度をさらに上げるためにはアクティビティの改善が鍵になる、と言ってくれたのです。

その後、法学部のFMは作成するパンフの中身、ファシリテーションのレベル、全体のプログラムの充実度などどれをとっても毎年着実に進化し続けていきました。特に協力学生のFMに対する愛着や熱意の入れようの深さはものすごいものがあります。毎年FMでの準備のためには協力学生たちは春休み、毎週のように集まっては練習を繰り返し、ファシリテーション・テクニックの習得に務めます。いつの間にか、「フレッシャーズ・ミーティングは自分たちでつくり上げるもの」になっていったのでした。

現在、FMがどの程度のレベルにあるかは、法学部のページをご覧いただくのが一番よいでしょう。

◯法学部フレッシャーズ・ミーティングについて

◯フレッシャーズ・ミーティングを支える裏方たち


このように着実にFMが改善されていく中、新入生や教員の評価は非常に高いものになっていきました。新入生からは「この研修があるおかげで友達ができた」「大学に安心して通うことができる」という声をたくさん聞きました。「この研修はとってもいい」と多くの人たちからも注目されてきました。国際関係学部もいつの間にか同じような研修をやるようになってきました。


ところが、肝心の退学率についていえば、それほど劇的に改善されませんでした。よくてせいぜい1%程度下がったくらいです。あれほどの研修をやってるのに、なぜ退学率が改善されないのか。僕には全くその理由がわかりませんでした。それが分かるのはもうしばらく時間がかかりました。2009年、昨年になってやっとだったのでした。

続きます。