大学の勉強は何の役に立つのか? その2

前回紹介した小説では、主人公の「私」は、パンフレットの制作を任された時に、自分の頭だけであれこれ考えるのではなく、「情報収集→情報分析→課題発見→構想→表現」といったプロセスをふまえ、質の高いアウトプットを出していました。こうしたプロセスをきちんとふまえることが「知識習得・知識活用のやりかた」であり、「課題解決力」と言われることだと考えています。

そして、お気づきのように、この「情報収集→情報分析→課題発見→構想→表現」というプロセスは「レポートや論文を書くプロセス」そのものでもあるのです。だからこそ、大学時代に日本文学をこつこつ勉強したって、一般的なイメージとは違って、仕事で役に立つ能力は十分身につくのです。これは、多くの人(特に大学の先生)がなかなか気づいていない点ではないかと思うのです。

さて、今回は、「大学の勉強は何の役に立つのか」について、また別の視点からの文章を紹介しましょう。これまた私が書いたパロディ的な文章で完全な創作です、念のため。前回は、学士力でいう「汎用的技能」を扱いましたが、今回は「態度・姿勢」に焦点をあててみることにします。専門外のことを扱っているのでその筋の専門家が読めばオカシイと思われるところもあるかもしれませんがご容赦。あ、関西弁もニセです。すみません。。

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[設問]以下の文章は東都大学名誉教授で数学者の林毅のインタビューの一部である。文章を読んで以下の問に答えなさい(問は省略)


大学で学ぶ知識が社会で役に立つかどうか、ってそんな質問、ボクからしてみたらアホやなあと思うね。役に立たないにきまってるやないの(笑)

ボクがやってた数学っていう学問分野はね、問題が解けるか解けないかが分かることが大事でね。解けるって分かった瞬間に、数学者は興味を失うわけですよ。高校までの数学は問題を解いて答えを出すことが数学だと思ってるでしょ。でも学問としての数学は、この問題はホンマに解けるのか、ということが問題になるわけでね。それに、学問としての数学分野の最先端でやってることは、ほとんど実社会の役になんかたたへん。物理学だっておんなじ。量子力学なんて20世紀前半に確立した分野で、もちろんすでにいろんな分野で活用されているけれど、じゃあ量子コンピュータが実現したかというと、100年近くたってもまだ実現してない。科学者が考えたことが実社会で役に立つのは、100年後かもしれないし、もしかしたら永遠にわからへんかもしれないね。そんなん、源氏物語の研究でもなんでも多かれ少なかれ同じやで。

そもそもね、「役に立つ」ってどういう意味で使ってるんかなあ。それって、「今の社会にとって」って意味やないのかな? 社会はどんどん移り変わっていくからね。今役に立つと思ってる知識が役に立たなくなる時代もすぐにくるよ。そのスピードは結構早いよ。むしろ、今はムダだと思ってるものの中に、将来役に立つ知識になるものがあるかもしれへん。だからね、ボクは若い人には、いっぱいムダなことを勉強せいというの。人生何があるかわからんからね。大学では、はたからみたらムダにみえるかもしれんけど、自分がオモロイと思うことを勉強して、自分の世界を広げていくほうがずっといいよ。いっぱいムダなことを勉強したほうが、将来ムダにならん確率のほうが高いんちゃうかなあ。

それにね、一番大事なことを言おうか。そもそも、いろんな物事を「役に立つかどうか」で判断するヤツって、絶対人から好かれんよ。「あいつは役に立ちそうだから友だちにしとこ」なんて考えてるやつの周りには、おんなじような打算的な人間しか集まらんよね。異業種交流会とかなんとかセミナーとかに集まるやつらって、そんなの多いじゃない(笑) 逆に、「あいつはオモロイところがあるから友だちになろ」って友だちをどんどん作るやつの周りには、オモロイやつが集まるようになってんのや。で、そういう友だちは結局のところ、ほんとうの意味で「役に立つ」友だちになるんですよ。

 知識もまったく同じ。要は「これは世の中では役に立たない知識かもしれないけれど、オモロイからもっと知りたい」と自分が心から思えるものを探す姿勢が大事でね、その姿勢こそが、「役に立つ」人間になる第一歩なんですよ。

(出典)林毅(注意:実在しません)『林センセイは本日休講』音羽出版