阿部謹也ゼミの思い出

僕にとってゼミとは大学生活のすべてといってよいほどのものである。大学生活や大学の勉強を語る上で、自分が経験したゼミを抜きに議論することはできない。そこで、少しまとめて書いてみよう。この記事は大学2年のゼミの思い出だ。

ゼミ旅行の記事でも書いたが、一橋大学はゼミの結束力が非常に強い。僕が学部生時代だった20年前にすでに1・2年を対象とした基礎ゼミがあったし、3・4年ともなれば全員がどこかのゼミに所属する。講義は1度も出なかったが、ゼミは1度も欠席しなかったというものがごろごろいるくらい、大学生活はゼミ中心の生活になる。一橋大学オリジナルの言葉もある。「ゼミテン」とはゼミのメンバーのこと(ゼミナリステンつまりゼミ生のドイツ語の略語のことか?)。ゼミの幹事は「ゼミ幹」、ゼミのコンパは「ゼミコン」。「ゼミ合宿」は当たり前のように行われ、神戸大・大阪商大・一橋大の「三商大ゼミ」は毎年どこかの大学の持ち回りで実施される。先生との関係も非常に濃いものとなり、自宅に呼ばれたりとかも当たり前。卒業後は、同窓生に会うと、「何年卒?」ではなく「何ゼミ?」と誰もが問う。同窓会はめったにやらないが、ゼミのOB会はどのゼミも頻繁に開催されている。

善し悪しは別として、これは一橋大学に確固として埋め込まれている伝統だ。そして、先生たちもこうした伝統を当たり前のように受け入れている。多くの先生方が、基礎ゼミ、学部ゼミ、院ゼミと年間3回は学生と合宿に行くことを当然と思っているのである。東京の大学で、しかも社会的に著名で多くの仕事をこなしている先生方が多い大学では希有な事例ではないだろうか。こうしたことが可能なのは、おそらく教員の半数が一橋出身者で占められていることが大きいだろう。自分たちがそういう教育を経験しているのだから、学生に対してもごく当たり前にそういう風に接するのだ。

そして、一橋の特徴として、多くの先生たちがいい意味でのリベラル(つまり自由主義個人主義的)な考え方を持っていたことがあげられる。その代表とでもいうべき人が僕が基礎ゼミで2年生の時に1年間だけお世話になった阿部謹也先生である。

阿部謹也の名前を知ったのは予備校時代だった。駿台予備校京都校の世界史の授業でちょうど中世ヨーロッパに差し掛かったとき、授業が終わってから担当していた中谷先生に「ヨーロッパ中世に興味があるので、勉強になる本があったら教えてください」と質問したのである。僕自身、ヨーロッパとは様々な縁があり、キリスト教の環境で育った経験からも、ヨーロッパ中世を知ることは自分のアイデンティティとも関わることのような気がしたのだ。そういうと、中谷先生は、即座に鯖田豊之と阿部謹也をあげてくれた。

阿部謹也は『ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)』と『自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)』を読んでしびれてしまった。通常の歴史では注目されることのない、しかし伝承の中で色濃く残されている虐げられた人々、差別された人々の歴史、ヨーロッパの基層とでもいえる庶民のリアルな生活が伝わってくるような内容、聖と俗というキリスト教の大テーマとキリスト教が導入されることで聖なる仕事が卑俗な仕事へと転嫁された歴史、等々。ちくま書房などから安野光雅の装丁でカッコいい本を次々と出版され、社会史という当時の先端分野を開拓された出版界のスターの一人だった。

僕は法学部志望だったし、歴史を専門にやりたいとはとても思わなかったけれど、「この人の授業をとりたい」と思い、志望大学を変更し、かろうじて合格し、晴れて小平(!)の門をくぐったのだった(蛇足:当時は小平キャンパスがあり、1・2年生は小平のぼろぼろのキャンパスで勉強する。ここは今から考えると信じがたいひどい環境だった)。

阿部謹也先生を最初に見かけたのは教務ガイダンスの時。小平講堂に集められた1年生に対して、社会学部長だったか教務部長だったか、ともかく他の3学部の先生と並んで話をしてくれたのだった。他の先生が話した内容は全く憶えていないけれど、阿部謹也先生が話した内容は今でもくっきりと覚えている。「カリキュラムなんかにこだわる人間はつまらない。学問とはみんなには見えないけれど、大学をこえたネットワークでつながっているのである。だから他の大学の授業を聴講に行きなさい。学部の時間割なんかに安住してはいけない。自分から学問を求めなさい。」とあの早口の口調で言い放ったのである。繰り返して言うが、時間割ガイダンスの時間でである。新入生がみんなあっけに取られたのは言うまでもない。

「やっぱりこの人はカッコいい人だ」としびれ、それから阿部謹也の本を読む日が続いた。そこから、中世ヨーロッパつながりで、『薔薇の名前』に飛び、記号論つながりでソシュールに飛び、バフチンに飛んだ。1年次の夏休みにミハイル・バフチンの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化 』と『言語と文化の記号論』を読んだのは、阿部謹也の影響も一つにはある(もうひとつは駿台予備校の表三郎先生だ)。思い返せば、よくあんな本を1年生で読んだなと思う。予備校と大学の先生というのは僕にとって、そういう背伸びをさせる存在だった。

さて、阿部ゼミに入れたのは2年次の時。当時は隔年で小平ゼミとして開講されていたように思う。一橋の特徴として前期は開講されるどのゼミにも学部関係なく入ることができた。喜び勇んでゼミに参加した。キリスト教の告白制度と愛の関係について書かれた文献をみんなで読みながら、先生の話を聞くという形式だった。文献は、英語が少々得意だと思っていた自分には全く歯が立たず、しかもすらすら訳していく学生がいたものだから激しく打ちのめされてしまい、ゼミは欠席しがちだった。ただ、文献の内容にかかわらず、先生の話を聞くことができるという意味では面白かった。先生は毎週、自身が書き留められた京大カードに目を通しながら、中世ヨーロッパのカトリックの告白制度こそが西欧の近代的自我を形成したのであり、それは愛の誕生と軌を一にしているという内容の話をいろいろしてくださった。

また、阿部先生は、当時から日本の「世間」というものに対して、きわめてきびしい視線を投げかけていた。「世間に申し訳ないとよくいうけれど、あれは具体的な損害を与えたことを申し訳ないと言ってるのではなく、個人の集合体である社会とは別の『世間』という実態のないものを騒がせたこと自体が問題だということなのだ」と、その後の阿部謹也を代表する世間論をちょうど論じ始めた時期だった。

我々は、「阿部先生は面白いこというなあ」とぼんやりと思っていたり、また、「ヨーロッパ的な考え方を身につけると、日本の社会に対する違和感を強烈に感じるんだなあ。これって日本の知識人の宿命なんだろうなあ」などと思っていたが、先生は毎回真面目に、ヨーロッパ中世においてキリスト教との関係の中で「個人」や「自我」が誕生したことと、日本のあいまいな感覚を対比し、日本も「世間」という考え方がなくならなければ責任ある社会にならない、と主張されるのだった。

結局、ゼミでのこうした先生の話は、実はその直後に出版された『「世間」論序説―西洋中世の愛と人格 (朝日選書)』や『「世間」とは何か (講談社現代新書)』に書かれた本の内容だった。僕らは、先生から直接本にする前のアイディアレベル、原稿レベルの話を聞かされたのだった。これは、今ではきわめて貴重な経験であったことが分かる。阿部先生は、「大学教員とは知識を生み出し、それを学生に伝える存在」ということを身を持って示していた人だった。また「学問とは、自分の内的必然からやるものでなくては意味がない」としばしば語っていたことからも、学問や日本社会に対する鋭く批判的な視点を持ち、しかもそれを乗り越えるために不断の努力を続けていることを身を持って我々に伝えていたのだった。

阿部ゼミは、夏休みに軽井沢でゼミ合宿を行った。阿部先生からは「歴史学を勉強するということは自分の中にある歴史を発見するということである。であるから、自分の歴史を語ること」という課題を出された。それがゼミ合宿のテーマである。歴史学を勉強するというスタンスと、自分の経験を学ぶというスタンスは通常は全く別個のものと考えられている。しかし、阿部先生は、研究テーマを”自分事”として引き受けられなければ、研究する価値なんてないとおっしゃっていたのだった。こうして、我々は中軽井沢の小さな旅館にみんなで行き、夜は先生を囲んで、ひとりずつ、自分がどういう人間であるか、どういう歴史を持っているかを語ったのだ。

その時の一晩は今でも強烈に覚えている。友人たちが自分自身と向き合い、自分を形成してきたものを語ることで、自分を見つめ直す。他の人間は、その場に居合わせることで、友人をより深く知ることになる。阿部先生はみんなの発表に対して、あまり多くをコメントせず、「ふんふん」とただうなずいていたような気がする。今から考えると、こういう自己の発露はしばしば自己啓発セミナーに見られる手法と同じである。ただ、阿部先生は、我々の心理を同調させようなどということはまったくせず、その夜は非常にクールに過ぎていったのだった。阿部先生は「旅行に行って寝る人がいるがあれはオカシイ。旅行に行ったら普通寝ないでしょう」などと(ちょっと酔っていたのか)変なことを口走っていたが、あれは多分、本当のことのような気がする。

2年ゼミはあっという間に終わり、我々は3年になった。その後、阿部先生は学長になり、大学改革を進める側になった。当時一橋大学は、学長選挙規定を含め、学生自治会との歴史的に複雑な関係を解消しようとしており、しばしば団交が行われていた.その場に僕も出席したが、学生たちが阿部学長に対してあまりにひどい言葉を投げつけるのでうんざりし、それ以来、そういった場に足を向けることはなかった。ひとつだけ覚えているのは、学生が「いったい改革とはいつ終わるのだ。いつまでも改革を言い訳にしてるではないか」と言ったところ、阿部学長が強い口調で「改革とは終わらないから改革なのである。改革に終わりはない。改革を続けることは大学の存続と同義なのである」と言われたのは今でも覚えている。

その後、学長を二期やる中で身体を壊され、僕が大学院時代にお見かけしたときはずいぶん憔悴された印象を持った。それから何か近寄るのが申し訳ない気がして、話しかけるのをはばかっていたが、その後、無事に退職され、他の大学でも学長を務められたという。一橋ではキャンパス統合やカリキュラム改革など、大学行政の面でも傑出した業績を残され、それがやはり寿命を縮めたことは容易に予想できる。

実は、僕自身は先生がある意味怖かった。阿部先生の本は読んだけれど、阿部先生が指定する文献は読めなかったからだ。なので、自分から先生と親しく話を交わしたという思い出はない。ただ、僕にとっては、「与えられた枠組みの中で安住するな」という最初の一言が今でも最も印象深いのである。