ブログ再開「学部マネジメントと学部長の役割」

はてながいつの間にかダイヤリーからブログに進化していました。遅まきながら新しいはてなブログを開設します。以前の職場で書いていたブログはそのまま残しておきます。

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私自身も職場が変わって2年半が経ちました。あっというまの2年半です。この間、何をやってきたかについては、まとめたものを本として出す予定です。乞うご期待。

今日は、それとは別の話題。大学業界の方はご存知かもしれませんが、「大学マネジメント研究会」という研究会があります(https://www.anum.biz)。この研究会で発行している機関誌『大学マネジメント』6月号に拙稿が掲載されました。題して「学部マネジメントと学部長の役割」。

かつて日本の大学は、各学部の教授会の独立性や権限が非常に強く、さらに言えば、個々の教員の独立性が非常に高く、それが組織的な教育体制の構築を含めた様々な大学改革を阻んでいたと言われてきました。

その後、国立大学に関しては法律が変わり、学長は学内選挙ではなく、学内有識者を加えた「学長選考会議」で選出されることになりました。多くの私立大学も、学長選挙が行われているところは、現在ではほとんどありません。

また、教授会は「重要事項の審議」を行う機関から「学長への意見具申」を行う機関へとなり、権限が大幅に縮小されました。

こうして、学長の権限は大幅に強化されました。大学は学長のリーダーシップのもと、全学的なガバナンス体制を構築し、各大学の個性や独自性を反映した取組みを行えるようになりました。多くの大学で、学長直下の組織やプロジェクトが立ち上がり、大学改革をスピーディーに進められる条件は整ったはずです。

しかし、未だに「学部が動かない」という声はあちこちで聞かれます。教授会の権限はほぼなくなったのに、なぜ学部改革が進まないということになるのでしょうか。

その理由は、教授会を弱めた一方で、学部をマネジメントする体制を構築しなかったからではないでしょうか。「学部マネジメント」を担うのは学部長です。しかし、多くの大学では、大学改革において学部長が重要なポストだと思われていません。

『大学マネジメント』同号の巻頭で、大学マネジメント研究会会長の本間政雄先生は「学部長は、1)年功序列的に選挙で選ばれ、2)任期は2〜3年と短く、3)予算や権限がなく、4)補佐体制が弱く、5)報酬が低い。(中略)学部長は結果的に『高等小間使い』と揶揄される」と述べられています。

しかし考えてみると、どんな大学でも教育の基本的な単位は学部です。入試は学部単位だし、学生や教員も所属するのは学部。カリキュラムも基本的には学部単位だし、学士号も学部ごとで授与されます。大学を教育面から見た場合、学部がしっかりしてないと、何も始まらないといえるのです。

そんな問題意識をもとに、前任校の九州国際大学法学部や北陸大学で手がけた学部改革についてまとめてみました。公開許可をいただいたので公開します。

 

山本啓一「学部マネジメントと学部長の役割」『大学マネジメント』2018年6月号, p22-31.pdf - Google ドライブ

 

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二つの課題解決力と当事者意識〜課題解決提案型授業は学生の課題解決力を育成するか

2015年7月15日の『教育学術新聞』に掲載された記事です。5ヶ月ほど前の記事ですが、少し加筆してブログに転載します。

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課題解決策提案型授業は課題解決力を育成するか
 課題解決力とは、産業界ニーズの高い汎用的技能(ジェネリックスキル)の一つとして、いまや大学教育改革の中で概念としては定着してきた感がある。多くの大学において、課題解決力育成のために、初年次科目やPBL科目等で「課題解決策を提案する」タイプの授業が実施されることが増えてきたように思われる。ただし「課題解決力」の意味は多様である。曖昧なまま用いられていることもある。「課題解決力育成」をめざした教育プログラムが、本当に学生の課題解決力の育成につながっているのか疑わしい時もある。
 筆者は、平成24年〜26年において実施された文科省の「産業界のニーズに対応した教育改善・充実体制整備事業」において、九州・山口グループの8大学による学修評価サブグループ(以下本グループ)として、課題解決力の育成と検討に取り組んできた。具体的には、8大学の学生で構成される学生グループ(1グループ4〜5名)を編成し、課題解決力育成のための様々な研修を試行したり、企業や団体の協力のもとで課題解決型インターンシップに参加させるといった取組を行い、その結果や効果を検証する評価制度の確立に取り組んだ。
 そのうちの一つとして、様々な資料やデータを読み取らせることを通じて思考力、知識活用力、課題解決力を育成するための研修を複数回実施し、教室の中で課題解決力をどのように育成できるかを検討してきた。具体的には、8大学から集めた学生50人程度を5人1グループに編成し、ジグソー学習法などのグループワークの手法を用いて多くの資料を読み、ブレーンストーミングKJ法を使いながら問題点や課題を発見し、そのうえで解決策を構想して、最後にグループごとにプレゼンするというプログラムを1泊2日で集中的に実施した。扱うテーマとしてはその時々のトピカルな課題(例えば「女性が輝く社会づくり」とか「地方創生」など)を選び、教材も大学をこえて様々な教員が集まって協働で作成した。この研修を実際に実施する中で気づいたことは、課題発見の段階では鋭い視点がみられたものの、解決策という点から見ると、学生チームの多くは、「職場での託児所の整備」といったあまりにありふれた内容しか提案できなかったということである。
 他方で、本グループが企業や自治体等の協力を得て実施した課題解決型インターンシップでは、一部の学生チームは会議室にこもり、模造紙とポストイットを前に延々議論する場面が見られた。上に述べた研修が裏目に出てしまったのである。我々は学生たちに、現場に戻ってもっと人の話を聞き、情報を集め、自分の目で観察するようにと指導せざるをえなかった。
 このようなことは多くの授業やインターンシップで起きている。しかも、解決策の提案に際して、「学生らしい視点で」という条件をつけようものなら、提案される解決策はSNSを利用したプロモーションやゆるキャラの導入、ご当地食材を活かしたB級グルメの提案といったワンパターンで独創性のないもののオンパレードになる。
 なぜこのようなことになってしまうのだろうか。


二つの課題解決力の育成方法の違い
 ここで指摘したいことは、課題解決力には、「リテラシー(知識活用力)」としての課題解決力と、「コンピテンシー(経験によって蓄積される力)」としての課題解決力の二種類があるのではないかということである。
 リテラシーとしての課題解決力とは、いわゆるPISA型学力のリテラシー領域に近い概念である。「知識をもとに考える力」や「知識活用力」と言い換えることもできるだろう。このスキルを、もう少し細かいプロセスに分解すると、「情報収集力→情報分析力→課題発見力→構想力→表現力」という一連の流れとして説明できる。大学においてレポートや報告書、論文を書く際には、このプロセスを回す力が必要になる(実際には各プロセスを行きつ戻りつするが)。
 この課題解決力のうち、最も重要なポイントは、「課題発見力」すなわち仮説構築力であろう。現実の様々な現象を分析し、その中から真の課題を発見し、その課題を生み出している要因を特定できれば、すなわち因果関係のセットを発見できれば、課題解決の8割は達成したようなものだ。
 仮説構築能力とは科学的思考そのものであり、社会科学や工学分野では研究活動の本質的な部分だといってよい。社会科学系の論文においても仮説構築ができれば論文の骨格はほぼ完成したようなものだと言われることが多いのも、課題発見力の難しさとその重要性が伺えるだろう。その意味では、リテラシーとしての課題解決力はジェネリックスキルではありながらも、専門教育を通じた育成が重要になる。
 たとえば、企業から課題を与えられるようなPBLにおいては、経営学科の学生ならば、社会科学的な仮説構築の方法論を用いてから現実の課題を発見し、說明できるようになることはもちろん、経営学フレームワークや理論を用いることも望まれるだろう。だが、初年次の段階で知識ストックが不足していたり、仮説構築の方法論に慣れていない初年次の学生では表層的な解決策しか提案できないのも当たり前である。そればかりか、何を指摘すればよいか分からない学生にとっては、モチベーションが低下することもしばしば見受けられる。したがって、初年次教育の中でこうしたPBLを実施することには少し無理があるように思われる。2年次以降の講義科目や演習科目を連動させたうえで本格的なPBL科目を実施するカリキュラムを導入している大学も見受けられる。
 このようなカリキュラム上の工夫は必要だが、それだけでは十分ではないように思われる。リテラシーとしての課題解決力は、社会で必要となる課題解決力の一面でしかないからである。
 社会の現場では、課題が発見され解決策が提示されるだけでは物事は解決しない。コンサルタントの仕事としてはそれで完結するかもしれないが、実際には組織の一員としてその解決策に取り組み、粘り強く実行・改善を続けることが不可欠である。現場では、課題解決のために、コミュニケーション能力などの対人スキル、主体性やストレスマネジメントなどの対自己スキル、刻々と変化する状況の中で計画を柔軟に修正するといった対課題スキル、そして何よりも結果を出すまで粘り強く試行錯誤を続ける「実行力」といった総合的なコンピテンシーが求められる。これはリテラシーよりも広い観点からのスキルのことであり、OECDのDeSeCoプロジェクトによってまとめられたキー・コンピテンシーをふまえている。
 こうしたコンピテンシーとしての課題解決力を身につけるためには経験を必要とする。実際に解決策を自ら試行し、トライアルアンドエラーで計画を修正しながら、課題解決を目指す経験を積むことが大事になってくる。会議室で解決策をプレゼンするだけでなく、現場でのコミットメントが求められるのである。
 だが、現場に浸り、その中で課題発見・課題解決を達成する経験を積むには時間が必要である。半期15回の授業でそのような実行力を身につけることは可能だろうか。ここでも複数のPBL科目が連動するようなカリキュラム設計が求められるのである


課題解決力と当事者意識
 社会で求められる課題解決力とは、上に述べた二つの異なった位相の課題解決力の掛け算と考えられる。だからこそ、現在の大学では、教室内で知識習得を伴う課題解決力の育成と、PBLやインターンシップなどで実際に他者とともに課題解決に携わる経験の両方が要請されているのである。
 そして、両者を結びつけるうえで不可欠なのは「当事者意識」ではないかと筆者は考える。
 リテラシーとしての課題解決策は、しばしば当事者意識を欠いた評論家的なものになってしまうことが多い。自らが実行するつもりのないビジネスプランや、それができれば苦労はしないという地域活性化プランなどが提案できたとして、それは大学教育の成果としてふさわしいだろうか。そこで学んだ力は企業などの産業界が大学生に期待している能力といえるだろうか。
 多くの企業で、特に新人社員にとって重要なのは、目の前の課題に対して、現場で他者と協働しながら、粘り強く解決に取組む実行力であろう。その意味で、専門科目や卒論執筆等を通じてリテラシーとしての課題解決力を育成できたとしても、コンピテンシーとして課題解決力が補完的に育成されている必要がある、というのが産業界からの要請であるように思われる。
 さらに言えば、両者のスキルを技術的に身につけるだけでは十分ではない。むしろ大切なことは、自分にとってその課題に取り組む意義は何なのか、どのような立場から解決策を考えるのか、といった自身の視点や自分の立ち位置を明確にするといった態度・姿勢ではなかろうか。
 たとえば、「大学生らしい地方創生プラン」を提案するとは、まずは「自分にとって地方はどういう意味があるのか」とか、「自分自身は地方でどういう生き方をしたいのか」といった自分自身の考えや価値観を問いなおし、自分の立ち位置をはっきりさせることから始まると筆者は考える。それが聞き手を共感させ、他者を巻き込む解決策の立案につながるばかりか、地に足の着いた現実的な課題解決策の提案につながると思うからである。


当事者意識と現代の教養
 私が学部時代の教養ゼミに参加して学んだヨーロッパ中世社会史家の故阿部謹也教授は、研究対象と自己の立場や価値観を切り離すことを強く戒め、「それがなくては生きていけないという研究テーマを探すように」と常に語っていた。社会や組織の課題解決に取り組む際も、課題を自己の問題意識と結びつけ、当事者意識を持ちながら解決策を考えることは同じ意味で大切だと筆者は考える。それこそが現在の大学において分裂しがちな専門教育とキャリア教育を接続するための実学的思考であり、別の視点からみるとそれは“現代の教養”と言ってよいようにも思えるのである。
 ひるがえって考えると、現在の日本の大学が抱える課題に対して、大学人である我々は傍観者的な立場から、実現可能性とは無縁の解決策を披露するだけで満足してはいないだろうか。学生に先立って、我々自身が課題を自分事として捉え、実際にそれぞれの現場で課題解決に取り組む“実行力”を発揮することが求められているのではないだろうか。

大学で育成すべき“ジェネリックスキル”とは何か?

ご無沙汰しています。ブログの更新がかなり止まってしまっていました。

さて、岡山にある「つながる地域づくり研究所(http://www.tsunaken.net/)」というところが発行している地方自治体情報誌“つな研ナビ”の第35号(12月発行予定)に、「大学で育成すべき“ジェネリックスキル”とは何か?」というテーマで寄稿しました。本来は会員しか読めないのですが、転載を許可していただいたので、ブログにも掲載します。

つな研の代表理事の一井暁子さんは、元岡山県議会議員で岡山県知事選にもチャレンジしたパワフルな方。実は僕とは小学校1・2年と中学校の同級生です。小学校1年の時から抜群に頭が良かった人で、岡山の未来を切り開く注目人材の一人だと思っています。一井さんとはFacebookが縁で再びつながり、僕もいろいろご相談させてもらったり、このように文章を寄稿したりということが始まりました。

さて、昨日中教審の大学入試改革答申が出されました。大学改革の答申はクリスマス前後に出るのでしょうか? 6年前の学士力答申もクリスマス・イブの日でした。この入試改革答申では、大学入試センター試験に代わって、知識の活用力や思考力を評価する試験への転換といった内容が含まれています。さっそく、いろんな議論がでていますが、ジェネリックスキルと大学教育との関係についてもう少し説明があったほうがよいのではないかと思ったので、急遽掲載します。短い字数の中に詰め込んだので、本当はもっと丁寧に説明したいところもたくさんありますが、またそれは別の機会にしようと思います。

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大学で育成すべき“ジェネリックスキル”とは何か?

はじめに
 今、大学で身につけるべき力として“ジェネリックスキル”という概念が注目されている。特定の職業を越えてあらゆる仕事で必要となる力という意味である。具体的には、「知識活用力」や「課題解決力」などの“考える力”、「コミュニケーション能力」や「自主性・自律性」などの“生きる力”のことを指す。平成20年に中央教育審議会が取りまとめたいわゆる「学士力答申」においても、各専攻分野を通じて培う学士力として、「汎用的技能」や「態度・志向性」が含まれている。

 日本の企業は、大学生に対して、「コミュニケーション能力」「チームワーク・リーダーシップ」「論理的思考力・問題解決力」「倫理観や自己管理力」「成長可能性」等のいわゆる“社会人基礎力”を求めているといわれる。ジェネリックスキルが注目を集めるのも、こうしたニーズに応えるためでもある。

 だが、なぜジェネリックスキルが社会で必要になるのか、また、どうすれば大学でジェネリックスキルを身につけられるのかといった疑問に答えられる人は、大学関係者にもあまり多くはない。そこで、ここではそうした厄介な概念であるジェネリックスキルについて簡単に説明していきたい。


ジェネリックスキル育成の意義
 ジェネリックスキル育成が大学教育において必要だと言われる理由をまとめてみよう。

 まず第1に、大学で学ぶ専門知識だけでは一人前の社会人・職業人を育成できないことは、はっきりしている。「◯◯という知識を身に付ければ◯◯という職業につける」というほど現実は単純ではない。職場では、日々新たに生じる課題に対して有効な解決策を考えだし、協働で実行できる力が求められている。ジェネリックスキルがなければミスマッチが容易に起こりうる。それが多くの職場で起きている早期離職につながっているという見方もある。

 ジェネリックスキルは、人文・社会科学系のように出口が幅広い分野だけでなく、薬学部や保育学部といった職業教育を行う学部でも重要となる。例えば、薬剤師は、医師の処方箋に基づき薬を処方する仕事だけでなく、医師や看護師とのチーム医療の中で、薬学という知識をもとに、患者とのコミュニケーションや処方箋の提案力といったスキルが要求されるようになってきている。化学が得意なだけで薬剤師として仕事ができる時代は終わったのだ。同じことは、日本の産業構造が製造業からサービス業へと移行しつつある中で、あらゆる分野で起きている。

 第2に、日本の企業や組織は、従業員に “つぶしのきく”力を求めるという事情もある。日本企業の社員は様々な部署を経験しながら昇進していく。とりわけ学生に人気の高い自治体職員などの公務員はそうした働き方を要求される。そこで必要となるのは「新たな課題に関する学習能力」や、「様々な人々と協働しながら課題解決にあたれる能力」である。また、多くの職業で仕事の幅が広がってきている。例えば、地域防犯の役割が高まるなかで、都道府県の警察官も県や市町村など自治体への出向が増大している。警察官にも幅広い視点からの政策立案能力が求められる時代なのである。

 第3に、大学進学率が上昇するに伴い、多様な学力を持った学生が増えたことも大きい。高校までの基礎学力が大幅に不足している学生も多い。ジェネリックスキルは大学で専門分野を学んだ結果として伸びることも多いが、大学の学習を円滑に進める上でも必要となる。だからこそ、多くの大学では初年次教育(1年次教育)においてジェネリックスキルを“意識的”に育成しようとしているのである。


ジェネリックスキル育成の方法
 かつての日本の大学生、特に文系学生は、就職の際に大学で学んだ内容が問われることは少なかった。進学率は低く、しかも全員が受験勉強を経験していたからである。だが、現在は入試形態が多様化し、AO入試や推薦入試など面接のみで入学する学生も多い。全入状況の大学も増大している。大学生が社会で通用するジェネリックスキルを習得できるかどうかは、大学の教育にかかっているのだ。

 上で述べたように、ジェネリックスキルは学習の“結果”や“副産物”として身につくものが多い。資料をもとにレポートを書いたり、プレゼンテーションを行ったり、ゼミで文献を読みながらディスカッションを行ったり、卒論を書いたりするような、いわゆる大学生らしい学習を積み重ねることは、「知識活用力」や「課題解決力」といった“考える力”を伸ばすうえで重要であることは言うまでもない。

 ただし、現在では、入学時にきちんとした文章表現能力やディスカッション能力のある学生は多くはない。だから、入学直後から一歩一歩、段階的に育成する必要がある。多くの大学の初年次教育において、アクティブ・ラーニングや文章表現科目が導入されている理由はここにある。

 他方、「コミュニケーション能力」や「自主性・自律性」といった“生きる力”は、授業で知識として教えられるものではない。様々な経験を通じて蓄積されるものである。就職活動で部活動やアルバイト等を含めた大学生活全体の経験が問われる理由はここにある。授業でも、アクティブ・ラーニングや、PBL(Problem Based Learning / Project Based Learning)といった協働学習・経験学習的なアプローチを導入し、学習の“副産物”としてこれらの力を育成することが求められている。

 さらに、多くの日本企業は、大学生に「仕事を通じて学び成長し続ける力」を求めている。だから、大学生の段階から「経験から学び成長する」力もつけておく必要がある。経験から学ぶとは、経験を「ふりかえり」、その中から自分なりの本質的な意味に「気づき」、そこから「次の新たな一歩を踏み出す」というサイクルを自分で回せるようになることである。これらは言葉による活動であることに注目したい。経験学習も単に経験するだけではだめである。経験から学ぶための言語能力を大学の授業を通じて伸ばすことが求められる。

 京都大学の溝上慎一教授によれば、学生の就職状況には、初年次の意識転換や成長が大きな影響を与えているという。学生自身が初年次の段階で、考える力や経験から学ぶ力(生きる力)が必要だと気づくことは、その後の4年間の成長にとって大切なのである。


おわりに
 我が国の大学進学率はこの20年間で25%から50%に急上昇した。その間、高卒者求人数は8分の1に減少した。国内の高卒職の減少が大学進学率を押し上げたのだ。他方で、日本学生支援機構奨学金を借りている大学生は約35%にのぼっている。多くの学生は卒業後に返済しなければならない借金を抱えながらも、高卒で就職する選択肢がないため大学進学を選択せざるを得ないのだ。

 このような状況で、もはや大学をモラトリアムだと思っている大学生は少ない。ただ、「◯◯学部に行けば◯◯という職業人になれる」とか「◯◯という資格をとれば就職できる」といった進路指導を受けて大学に入学したものの、現実とのギャップから不安を感じて前に踏み出せない学生もいる。

 大学は今まで以上に、多様な学生をきちんと教育し、自立した社会人・職業人へ育て上げるという社会的な役割をより強く意識せねばならないだろう。ジェネリックスキル育成はその中心的課題となるはずである。高校においても、社会に出るためには大学で知識活用力や経験から学ぶ力を伸ばすことも重要だという進路指導が期待される。

(以上)

大学の勉強は何の役に立つのか? その2

前回紹介した小説では、主人公の「私」は、パンフレットの制作を任された時に、自分の頭だけであれこれ考えるのではなく、「情報収集→情報分析→課題発見→構想→表現」といったプロセスをふまえ、質の高いアウトプットを出していました。こうしたプロセスをきちんとふまえることが「知識習得・知識活用のやりかた」であり、「課題解決力」と言われることだと考えています。

そして、お気づきのように、この「情報収集→情報分析→課題発見→構想→表現」というプロセスは「レポートや論文を書くプロセス」そのものでもあるのです。だからこそ、大学時代に日本文学をこつこつ勉強したって、一般的なイメージとは違って、仕事で役に立つ能力は十分身につくのです。これは、多くの人(特に大学の先生)がなかなか気づいていない点ではないかと思うのです。

さて、今回は、「大学の勉強は何の役に立つのか」について、また別の視点からの文章を紹介しましょう。これまた私が書いたパロディ的な文章で完全な創作です、念のため。前回は、学士力でいう「汎用的技能」を扱いましたが、今回は「態度・姿勢」に焦点をあててみることにします。専門外のことを扱っているのでその筋の専門家が読めばオカシイと思われるところもあるかもしれませんがご容赦。あ、関西弁もニセです。すみません。。

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[設問]以下の文章は東都大学名誉教授で数学者の林毅のインタビューの一部である。文章を読んで以下の問に答えなさい(問は省略)


大学で学ぶ知識が社会で役に立つかどうか、ってそんな質問、ボクからしてみたらアホやなあと思うね。役に立たないにきまってるやないの(笑)

ボクがやってた数学っていう学問分野はね、問題が解けるか解けないかが分かることが大事でね。解けるって分かった瞬間に、数学者は興味を失うわけですよ。高校までの数学は問題を解いて答えを出すことが数学だと思ってるでしょ。でも学問としての数学は、この問題はホンマに解けるのか、ということが問題になるわけでね。それに、学問としての数学分野の最先端でやってることは、ほとんど実社会の役になんかたたへん。物理学だっておんなじ。量子力学なんて20世紀前半に確立した分野で、もちろんすでにいろんな分野で活用されているけれど、じゃあ量子コンピュータが実現したかというと、100年近くたってもまだ実現してない。科学者が考えたことが実社会で役に立つのは、100年後かもしれないし、もしかしたら永遠にわからへんかもしれないね。そんなん、源氏物語の研究でもなんでも多かれ少なかれ同じやで。

そもそもね、「役に立つ」ってどういう意味で使ってるんかなあ。それって、「今の社会にとって」って意味やないのかな? 社会はどんどん移り変わっていくからね。今役に立つと思ってる知識が役に立たなくなる時代もすぐにくるよ。そのスピードは結構早いよ。むしろ、今はムダだと思ってるものの中に、将来役に立つ知識になるものがあるかもしれへん。だからね、ボクは若い人には、いっぱいムダなことを勉強せいというの。人生何があるかわからんからね。大学では、はたからみたらムダにみえるかもしれんけど、自分がオモロイと思うことを勉強して、自分の世界を広げていくほうがずっといいよ。いっぱいムダなことを勉強したほうが、将来ムダにならん確率のほうが高いんちゃうかなあ。

それにね、一番大事なことを言おうか。そもそも、いろんな物事を「役に立つかどうか」で判断するヤツって、絶対人から好かれんよ。「あいつは役に立ちそうだから友だちにしとこ」なんて考えてるやつの周りには、おんなじような打算的な人間しか集まらんよね。異業種交流会とかなんとかセミナーとかに集まるやつらって、そんなの多いじゃない(笑) 逆に、「あいつはオモロイところがあるから友だちになろ」って友だちをどんどん作るやつの周りには、オモロイやつが集まるようになってんのや。で、そういう友だちは結局のところ、ほんとうの意味で「役に立つ」友だちになるんですよ。

 知識もまったく同じ。要は「これは世の中では役に立たない知識かもしれないけれど、オモロイからもっと知りたい」と自分が心から思えるものを探す姿勢が大事でね、その姿勢こそが、「役に立つ」人間になる第一歩なんですよ。

(出典)林毅(注意:実在しません)『林センセイは本日休講』音羽出版

大学の勉強は何の役に立つのか?

あちこちの大学でオープンキャンパスが開始される時期がやってきました。多くの大学では、「うちの大学で◯◯という分野を勉強すれば◯◯という仕事につける」と言うことが多いようです。

たしかにそれは、医・薬・歯学部や教育・保育、理工系などには当てはまります。しかし文系はなかなかそうはいきません。マスコミの勉強をすればマスコミに就職できるわけではないのです。経済学部を出たら銀行に就職できるというものでもありません。

文系学部の一番の課題は「職業との関連性が見えにくい」ところです。それは大学の問題でもあるのですが、同時に日本の雇用形態の問題でもあるのです。しかし、ここではその話には深入りしないでおこうと思います。

一つ確かなのは、今の大学では教員が「この分野、この科目の勉強は社会とどうつながるのか」という説明を考えることは不可欠だといえます。私も授業の第1回目のガイダンスでは、そのような内容を含めるようにしています。そうでなければ、この間まで高校生だった学生に、専門分野に興味をもてといって難しいのが現状です。それに、これが「すべての科目にキャリア教育の視点を入れる」という意味だと考えています。

そこで、「大学での勉強は仕事とどうつながっているのか?」というテーマで、たとえばこんな風に考えられるのではないかというものをエッセイ小説風に書いてみました。これは昨年書いたもので、初年次科目の教材にも使ったものですが、なかなか好評だったので転載します。文体がパスティーシュっぽくなっていますがご容赦ください。

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 私は、新橋にあるちいさな出版社で編集の仕事をしている。出版社というとなんだか華やかそうなイメージがあるけれど、作っているものは企業のチラシやパンフレットだし、会社の事務所が入っているビルもとても古い。会社には、ガハハとよく笑う太った社長と、細くて背が高いのに腰の低い専務と、社員が5名いる。あとは経理のおばちゃんもいる。社長はいつも景気が悪いとグチをこぼしている。

 私は大学では近代文学を専攻した。自分で言うのもなんだが、大学ではわりとまじめに勉強したと思う。卒論は太宰治キリスト教の関係をテーマにした。いろいろ資料を集めたが、指導教官からは自分なりの視点を見つけることが大事だと言われた。自分なりの視点なんて学生の分際でそう簡単に持てるものじゃないだろうと思ったけれど、最初に太宰治を読んだ時の気持ちに立ち戻って、なんとか考えたのだった。その後、論文の構想を立て、お正月はずっと家にこもって卒論に没頭した。出来上がった時には感無量だった。

 でも、友人たちが就職活動をやっていたのに、その間、私はぼおっとしていて、いつの間にか卒業する時期になってしまった。それを見かねた親が、知り合いのつてをたどって、今の会社を探してくれたのだ。

 私は特に出版社で働こうなんて考えてなかった。編集の仕事がなんなのかも全然知らないまま、社長から「日本文学をやったんだったら、文章は書けるだろう、ガハハ」といった感じの簡単な面接だけで採用されたのだった。提示された給料はすごく安かった。でも、他に行くところがないから仕方がない。しばらく働いてみようと思った。

 仕事はわからないことばかりだった。ある会社の新卒採用のパンフレットをはじめてまかされた時には、途方にくれた。相手先との打ち合わせは先輩が手助けしてくれたけれど、先輩は忙しいみたいで、あとは一人ですすめてくれ、とほうりだされたのだった。

 相手先の会社から渡された資料は、会社概要や売上とか社長のメッセージとか、その会社が作ってる製品の細かい説明とか、ありきたりなものが多かった。こんな資料をもとにどうやって採用試験を受けようという学生にアピールする内容のものを作ればよいのだろう? 途方にくれた。

 しかたがないので、他のパンフレットを見たり、図書館に行ってデザインの本を調べたりした。あるデザインの本には、「広告とは、目指す相手に届けるメッセージだ」と書いてあった。私はそれまで、パンフレットはきれいな写真と図が入っていたらそれでいいのかと思っていた。だからこの一文を読んでうむむとうなったのだった。

 そこでもう一度、相手の会社の担当者に話を聞いてみた。すると、
「ウチは地味だけど作ってる製品もいいし、雰囲気も良くていい会社なんだ」と言われた。ほかにも、
「どんどんアイディアを出して自分から動く人に来てもらいたいんだよなあ。ウチみたいな会社が生き残るためには、みんながそんな風に仕事をしないとね」とも言っていた。

 どんどんアイディアを出して自分から動くって、どんな感じなんだろうと思って、私はその会社で製品を開発している人に話を聞くことにした。メガネをかけた地味な年配のおじさんだった。でも、話を聞くと面白かった。会社のみんなでお酒を飲んでる時に、突如アイディアを思いついたのだそうだ。そこから飲み会を切り上げてみんなで会社に戻って、一気に設計図までつくったらしい。社員はみんな仲が良さそうだった。

 こういう会社は小さいけれど楽しそうだなあと思った。だから、パンフレットのタイトルは、「こんな小さな会社だけど未来がある――みんなのアイディアを活かす職場」とした。そこからパンフレットの内容は自然に決まっていった。写真も図も少ないけれど、みんなが何のために仕事をしていて、どんな風に協力しあってるのかを具体的に書いた。開発者のおじさんと若い社員の対談も載せた。大学の友人に見せてダメ出しをしてもらって、直したりもした。

 できた案を持って行くと、相手先の担当者は「こういうことを伝えたかったんだよ」と言ってくれた。うちのガハハ社長も喜んでくれた。「やっぱり大学でちゃんと勉強した人は強いね、仕事のやり方がわかってるなあ、ガハハ」と言ってくれた。私は大学でそんな勉強したことないのにと思ったけれど、でもちょっとうれしかったのだった。

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いわゆる「社会人基礎力」に関するメモ

今回の記事は、私の仕事上考えていることを、忘れないうちにメモにしたものです。一気に書いたので読みにくいと思います。
すでに、専門家の間では散々議論されつくされていることだとは思うのですが、「私個人としては、社会人基礎力をこんな風に理解している」という個人的なまとめのようなものです。

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経産省のいう「社会人基礎力」とは、「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力」をあらわす概念である。これには、「前に踏み出す力」「考え抜く力」「チームではたらく力」の3つの力で構成されている。


・この社会人基礎力の源流は、(詳しく調べたわけではないが)OECDが2003年にまとめたキー・コンピテンシーである可能性が高い。OECDは先進国を中心として90年代以降注目されたスキルを「道具を相互作用的に用いる」「異質な人々の集団で相互に関わりあう」「自律的に行動する」の3つにまとめている。
・社会人基礎力もキー・コンピテンシーも、いずれも、「課題」「人」「自己」という3つの観点から、知識基盤社会に必要となるスキルを概念化しようとしている点で共通する。時期的に言っても、社会人基礎力概念はOECDのキー・コンピテンシー概念を踏まえているといってよい。
・こうしたスキルが注目されるようになったのは、全世界でグローバル化とIT化が進行し、知識基盤社会の到来とともに、知識の短命化、将来の不確実性の増大が起きているからだと説明されることが多い。だから、小学生から社会人まで、「知っていること」ではなく、認知的側面、情意的側面、社会的側面を含めた「できること」の指標提示が進行しているのである(松下佳代)
OECDは、このキー・コンピテンシーを「単なる知識や技能の習得を越え、共に生きるための力を身に付け、人生の成功と、良好な社会を形成するための鍵となる能力概念」と位置づけている。
・キー・コンピテンシーは、「ジェネリック・スキル(汎用的技能)」と呼ばれることも多い。つまり、「あらゆる職業を越えて、社会で生きていく上で生涯必要となるスキル」という意味として理解されている。要するに、「生涯学習」の観点から、どんな学習経験や社会経験をしようが、小学生から大人までみんなが生涯を通して蓄積していくべきスキルだという位置づけである。これは、学校での学習を越えた広い意味の概念である。生涯教育というのは、そういう意味として位置づけられているのである。
・ところが、日本では「実社会・産業界から求められている能力」であるとか、「近年の学生に欠けている能力」とか、ひどい場合には、「大学で教えてきた知識なんて役に立たないからむしろ社会人基礎力を身につけさせろ」などと理解されてしまっている。本当は、小学校から社会人まで、生涯を通じてずーっと続く努力目標・評価指標という意味であるが、日本では、「最近の経験が足りない若者が大学で身に付けるべきスキル」に矮小化されている。
・社会人基礎力が大事だという企業は、本当は、社員教育の中でこうしたスキル向上プログラムを充実化させないと、言ってることがちぐはぐになる。


・キー・コンピテンシーや社会人基礎力の育成については、「経験」と「ふりかえり」と「ロールモデルの意識」がポイントとなる。要するに、講義で教え込める知識ではなく、「体験」が重要となってくる。
・だから、社会人基礎力は、教室のみでつくものではない。課外活動、サークル、アルバイトなど4年間の大学生活の総体として身につくものである。ある意味、授業なんてまったく出なくても、社会人基礎力だけ身につくということは十分ありえる。広い意味で、社会人基礎力は大学教育を必ずしも必要としない。
・そこを無理やり大学の個別の授業の中だけで評価しようとするとおかしなことになってくる。


・学校の授業の中で、「評価」はものすごく重要である。
・他方、社会人基礎力の最大の問題も「評価」なのである。これらは数値化することが大変難しい能力である。指標は提示できるものの、それをどう「評価」に落としこむかは、最大の難問であり続けると思う。
・もちろん、ペーパーテストというか複雑なアンケートのようなもので、コンピテンシーを客観的に把握しようという試みはなされているし、ある程度それは成果を上げていると思う。
・しかし、たとえば「社会人基礎力グランプリ」は評価基準を公開していないと聞く。それは、この概念の根本的な所で、客観的な評価が難しいという問題があるからだろう。
・特に大学の教員が、教室の中で学生の社会人基礎力を評価することは大変困難である。授業の評価基準に社会人基礎力的なものを含めたとしても、それを点数化することがうまくいっている事例は少ないと思われる。


・こうしたスキルは、教員が子どもや学生を長い時間かけてみていけばだんだんと見えてくるものである。それが小学校で言えば通知表の「所見」にあたる。1年間、子どもをずっと観察している小学校の教員であれば、子どものコンピテンシーは、もしかしたら親以上にきちんと評価できる可能性がある。
・他方、大学で週1回の講義程度で見えてくる学生の社会人基礎力などは、あてにならないことが多い。特に二十歳前後の学生は、教室での演技がとてもうまい。教員は学生の一面的な部分しか見ずに評価している可能性がある。
・理系であれば研究室の指導教官は、昼夜を問わず指導をするので、かなり長い時間かけて学生をみている。そうであれば、学生の専門能力だけでなく、コンピテンシーも把握できるだろう。だから、理系は研究室の指導教官が「推薦状」を書けるのである。文系で、週1回90分しか学生と会わないような教員は、よっぽど注意深く観察してる教員以外は、通常は推薦状なんてかけないはずである。


・教員が社会人基礎力を評価するのは難しいことはわかった。では、「学生自身は自分の社会人基礎力を把握できるのか」という面がある。
・これは「ふりかえり」のことである。「ふりかえり」とは、「自己評価」のことである。体験を行った後で「ふりかえり」をすることによって、3つの能力は伸びていくとされる。自己認識のためには、他者の視線が必要になってくる。だから、自己評価をするには、相互評価や教員からのコメント等が必要になってくるのである。多面的な評価と「照らし合わせ」ながら(田中耕治)自己評価は行われるべきなのだ。
・別の角度から見ると、「ふりかえり」能力自体が「メタ認知」レベルの高さ・深さを表しているともいえる。深いふりかえり(=深い自己認知)ができること自体が、社会人基礎力の高さだと捉えることもできる。
・だから、大学生ともなれば、小学生のように教員による他者評価(所見)に依存するのではなく、自己評価ができるようにならなければいけない、とされるのである。自己評価ができること自体が精神的な成熟度のあらわれである。
・自己評価も長い時間をかけて見えてくるものである。だから、その時その時のふりかえり、暫定的なものに過ぎない自己評価をポートフォリオに溜め込んでいく必要があるのであって、それらを後から見返すことでさらに深いふりかえりにつながるのである。
・そのために社会人基礎力やキー・コンピテンシーをルーブリック等で明示化し、学生に示すことには、ある程度意味があると思う。学生にこうしたスキルを提示し、その観点から経験を振り返るクセをつけさせることは、大人として成熟していく過程で、そして、生涯にわたって社会で生きていく上で、ある一定の層の学生に対しては必要なことだと思う。
・現在の(特にユニバーサル)大学では、コンピテンシーにかぎらず様々なスキルが欠けている学生が入学し、そのまま卒業する可能性がある。だから、正課教育の中で、あるいはキャリア教育の中で、社会人基礎力の重要性を教え、ある程度ふりかえりをさせる、つまり、コンピテンシーを「意識的に」育成することは、いくつかの留保条件をつけた上で、全否定できるものでもないと思う。現状は結構悲惨な状況であることは分かってはいるが。


・しかし、もう一度言うが、社会人基礎力やキー・コンピテンシーは客観的な数値化が大変難しい能力である。
・社会人基礎力は「大学のみで育成する力」でもなければ、「客観的な数値に落とし込み、成績評価に組み込む」ことができるたぐいの力ではない。
・大学の授業の中で無理やり数値化しようとしたり、ましてや成績評価に組み込こもうとすることは、ある意味教師の思い上がりであり横暴であるとさえ言っても良いのではないだろうか。「オレは人を見る目があるから、じっと見ていれば、学生の社会人基礎力をちゃんと評価できる」なんて言っている人に限って、茶坊主に取り囲まれていい気になっているだけのことが多い。
・社会人基礎力やキー・コンピテンシーのみが、社会で必要なスキルであるわけではない。アカデミックな専門的スキルや、高度職業スキル、あるいは教養など、いずれも社会で有用なスキルであることは忘れてはならないと思う。だからハイパー・メリトクラシーを批判する本田由紀の主張は、現状をみれば正当性があると思う。


・さらに重要な点は、「ふりかえり」能力とは、言語表現能力そのものであることだ。言語能力が低ければ、メタ認知能力は必然的に低くなる。もちろん、言語能力が高ければメタ認知能力が高くなるというものではないが、メタ認知は、言語能力に依存する部分が大きい。
・就活の時に企業は学生の社会人基礎力が大事だということが多いが、採用担当者は学生の社会人基礎力を直接観察できるわけではない。それは、文章や口頭の言語表現を通じて理解するしかない。学生の行動を直接長い時間かけて観察するような採用方法は普通は取れない。
・だからエントリーシートを「盛る」ことと面接対策に学生は命をかけるのである。それで採用担当者のウラをかけると思っているからだ。それはある程度あたっている。同じ経験をしても、非常に説得力のある言葉でその経験を表現できていたら、当然評価は高くなる。それは就活対策というトレーニングである程度可能なのである。


・しかし大学教育に携わる人間としては、もっと根本的なところに立ち返って、社会人基礎力やキー・コンピテンシーが結局のところ「言語能力」「文章表現能力」と深く関わっている点に注目すべきである。
OECDは、キー・コンピテンシーのうち、「課題」面を中心に、テストで測定できる能力をPISAとして独立させた経緯がある。PISAは主に、知識活用力(リテラシー)を扱っている。同様の分野にAHELO、PIAACがある。
・社会人基礎力を伸ばすためには、その必要条件である「言語能力」「文章表現能力」を伸ばすことをもっと重視すべきだと思う。
・それは文章表現科目といった授業を通じて伸ばすこともできる。初年時教育においては重要なアプローチである。
・もっと重要なのは、専門教育を通じて深い言語能力をつけるという大学固有のアプローチである。例えば「卒論」を書くことは、必要条件としての究極の社会人基礎力育成プログラムになり得るはずだ。
・最近は、卒論が書ける学生が少なくなったからといって、卒論が廃止された大学が結構あるようだ。だが、大事なのはむしろ逆で、卒論が書けるようになるために、初年次からどのようにカリキュラムを組み立てていくか、という視点が必要だろうと思う。実際にそのようなアプローチを取っている大学は増えているように思う。


・社会人基礎力については、その育成方法や評価方法など、多くの大学でもっと議論されていくべきだろう。「文科省は、経産省由来の社会人基礎力という言葉を嫌うから、対文科省の申請書には使わない方がよい」などという、どうでもいいことを議論するヒマがあったら、もっと大切なことがあるはずだ。
文科省のいう「学士力」は、「専門的知識とジェネリック・スキルの両方を大学の教育目標に含めるべきだ」というメッセージであると解釈できる。「①知識・理解」は深い専門知識、「②汎用的技能」「③態度・志向性「④統合的な学習経験と創造的思考力」は、広義のジェネリック・スキルである。これらが相互に結びついて渾然一体となっているのが、実は「学士力」の正体だと思う。
・学士力の分類が他のジェネリック・スキル論と比べて独特の分類なのは、初等・中等教育の学習指導要領との連動性を意識しているからだと思う。学士力の分類は小学校の通知表と似たところがある。だから、小学校から大学までの大きな流れの最後の部分として「学士力」を位置づけているのではないか。「学士力」は「生涯学習」の流れの中の一つの通過点として捉えられているのだろう。
・だから、経産省文科省も大学教育は生涯学習のプロセスの一つという趣旨の部分で大きくずれているわけではない。
生涯学習という考え方そのものを最も鋭く批判しているのが芦田宏尚先生(大変お世話になっているので呼び捨てはできません)だろう。確かに、生涯学習の観点を強調すればするほど、学校教育の独自性や存在意義は希薄化していくのである。


・結局のところ、大学で社会人基礎力を育成しようとするならば、「問題を解決するために知識を使いこなせる力」「自分の意見を述べるための知識、意見を述べるための考え方を育成する」ことを、もっと見据えるべきではないかと思う。それが「大卒人材としてふさわしいレベルまで学生を引き上げる」一つの方法だろうと思うのだ。

4つの小学校を経験して言えること

今日話題になった小学校の教育に関するブログ記事を読んで、自分の小学校のことを書きたくなりました。ほとんど自分語りですので、興味がない人はスルーしてください。

僕は4つの小学校に通っています。

 最初に入学した小学校は地方都市の真ん中にある創立100年を超える古い小学校でした。校舎の床はタールを染み込ませた板張りで、転んだら真っ黒になるような小学校です。冬には教室の真ん中に石油ストーブが置かれるような、なんだか戦前の雰囲気を漂わせた小学校でした。先生たちも厳しく、礼儀や姿勢などを叩きこまれました。授業が始まる前は手を背中にまわして座ったまま気をつけの姿勢をします。先生たちは権威的でした。給食もおしゃべりなど言語道断で、一人で静かに前を向いて食べるのです。時間内に食べ終わらないといつまでも残されて、ある子は5時ぐらいまで一人しくしく泣きながら教室に残されていました。この学校では、勉強ができる子どもは褒められていました。クラスで最も勉強ができる子は学級委員長になっていました。この学校には1年半通いました。

 2つめは親が家を新築したので、川を渡り少し離れたところの小学校に転校しました。この学校は当時はなかなか困難な課題を抱えていました。小学3年生になってもひらがながきちんと書けない子どもが結構いました。この学校は1年しか通っていませんが、その中で受けた授業内容は全く覚えていません。授業参観でも、なぜか先生自身が習い事をしているお琴を披露するという、今から考えるとよくわからないことをやっていました。きっと授業が成立しないからそんなことをやって時間を潰していたのでしょう。もちろん愛情深い先生もいました。しかし、この学校では、勉強ができることはむしろバカにされました。クラスのいじめっ子がクラスを牛耳っているような学校でした。

 3つめはカナダです。父親の仕事の関係で1年間カナダの地方都市の小さな公立の小学校に通いました。幼稚園の時もカナダに2年いたのですが、小学校のうちに完全に英語は忘れてしまっていました。しかし、カナダの学校は毎日が楽しかったという思い出しかありません。様々な人種の子どもたちがいました。マイノリティに対する差別的な言説は絶対に許されませんでした。先生たちはみんな、小学校で唯一の外国人である僕をとても尊重してくれました。子どもたちはみんな人なつっこく、すぐにみんなが友だちになってくれました。日本を知るイベントを開催してくれたこともあります。英語ができない僕に対しては、年配の女性の先生が時間を作ってくれて、みんなが国語(英語のことです)をやっている時に別の教室で1学年下のテキストをつかって補習をしてくれました。制服もなく何を着ているかとか全く誰も気にしません。教室の掃除も用務員さんがやってくれます。気をつけとか礼とか整列とか一度たりともやったことがありません。学校のイベントも、ハロウィーンとかクリスマスとか楽しいイベントだらけでした。冬は校庭のリンクに水を撒けばスケート場になります。ただし、朝一番に教室の国旗に向かって敬礼したまま誓いの言葉をみんなで暗唱し、主の祈りをすることにはびっくりしました(現在では信教の自由の観点からこのような朝の儀式は廃止されているとのことです)。他方、教科書やノートは全部学校において帰り、宿題も殆ど出なかったのが驚きでした。算数は日本と比べて2年ほど遅れている感じでした。先日、成績表を見返す機会があったのですが、所見欄では、算数の能力とユニークであることとユーモアがあることを褒めてくれていました。大人になってカナダに遊びに行くことがあり、当時の先生を見つけ出して会いに行ったら、すごく喜ばれました。

 4つめは元の地方都市の小学校です。その地域の国立大学教育学部の附属小学校に転校しました。県外に1年以上居住した人は編入試験を受ける資格があったため、試験を受けて合格したのです。ここは勉強のできる子どもたちがいっぱいいました。小学生なのに「要するに〜」なんて言いながら授業中に発表するのです。親たちも医者などのお金持ちがたくさんいました。社会科見学でも自動車工場を見に行っても、本社工場と下請け工場の関係性について議論したり、輸出車のスペックの違いなどについても質問したりするのです。他方、1年間日本から離れていただけで僕は帰国子女扱いをされ、「カナダ、カナダ」とからかわれる毎日が続きました。ちょっと机の上に座っただけで、先生から「お前はカナダなんかに行ってたからそういう常識がない」と怒られました。みんなと同じように遊ばないだけで協調性が欠如していると問題視されました。ただ、年間の3分の1は教育実習の先生たちが授業をするので、次々といろんな教育実習生と触れ合うことができました。大学祭に遊びに行くと「先生」たちがたくさんいて楽しかった思い出があります。

今では、海外の学校に通った経験のある人は多いことでしょう。ただ、親が商社などにつとめている場合は、3年とか5年間海外に赴任するので、その間に子どもは完全に現地に適応します。バイリンガルになる人が多いでしょう。僕の場合はそういうことにはなりませんでした。せいぜいLとRの発音の区別がつくぐらいです。

さて、これらの小学校のうち、これからの日本はどの小学校を参考にすべきだといえるのでしょうか? あるいはどこの小学校が大事になってくるでしょうか? 伝統と規律を重視する小学校でしょうか? 自由と自主性を尊重するカナダの小学校でしょうか? エリートを集めて難しい内容の授業ができる名門校でしょうか? はたまた教育困難校でしょうか? 

北米や欧米の小学校を一度経験すると、そこで個人・自由・マイノリティの尊重が徹底されているのに感激し、その価値にあこがれる人が多くなるのは実感としてわかります。いわゆる「生涯学習」や「エリート選抜教育」(実はそれがゆとり教育の真髄だと思います)を推進する人の中には、自分自身が「勉強ができた」がゆえに、「日本の学校に居心地の悪さや息苦しさ」を感じた経験を持ち、「日本の教育では子どもの才能や自主性・自律性が育たない」と考えている人が多いような気がします(あくまで主観ですが)。

日本の教育行政に影響を与える力を持っている先生たちは、外国での大学のPh.D取得も含め、海外の知見が深い人が多いようです。自分自身が、日本の学校での摩擦に悩んだ人も多いことでしょう。

また、「勉強は子どもが興味を持つような内容だけ教えれば良い」「勉強は子どもが得意なことを思い切り伸ばすようにすればよい」と主張する人たちは、「自分がそういう教育を受けていればもっと学校時代が楽しかったはずなのに」という、学校に対するルサンチマンのような気持ちを持っている人も少なくないような気がします。

もちろん、日本でそういう自由な校風の小学校があってもいいと思います。ものすごく才能が豊かな子どもにとっては、普通の学校が足かせになるでしょう。芸術やスポーツの才能がある子どもにとっては、普通の勉強の意味はないかもしれません。極端に勉強のできる神童を集めて教育をする学校も必要だと思います。

ただし、日本の義務教育としての小学校は「すべての子どもに対して平等な教育の権利を保証する」という考え方のもとで教育が行われています。ユニバーサルな教育こそがすべての人の将来を形づくる基礎になるわけですし、それがまわりまわって日本の国力につながるのだというのは、明治以来日本で共有されてきた基本理念だと思います。だから、勉強に興味が持てない子どもに対しても、勉強ができるようになる「回路」がきちんと保証されていなければならないというのは、日本のコンセンサスではないかと思うのです。

実は、進学率が50%をこえ、大学のユニバーサル化が進行することによって、この考え方の延長線上に大学も含まれてこざるをえないのですが、それはまた別の話になりますので、今日はこのへんで。