(私論)キャリア教育とはこんな意味で捉えられないか

今日は、高校の進路指導の先生方を招いての研究会が大学で開催された。とくに商業高校の先生の発表では、職業教育の点から見て、非常に参考になる取り組みを紹介され、大変面白かった。

その後、先生方と懇親会。話をしているうちにキャリア教育がなんなのかということについて、ぼんやりとある考えが浮かんだ。今回はその内容についてメモがわりにエントリーを書いてみたい。

大学のキャリア教育とはコアカリキュラムの中で実現すべきことというのは、最近(詳しくは語らないが)twitterのフォロワーの方々のおかげで明確に意識できるようになった。自分なりの言葉でいえば、コア・カリキュラムの科目を履修する中で、学生が自らの学力を伸ばし、その結果、有り体に言えば、「自分が目標とする、あるいは夢でしかなかった職業につけること。または自分が思ってもみなかった会社に就職できること」。そういうことを実現できるのがキャリア教育なんだろうと思う。

で、そういう観点から、最近、本学部の1年生に言うことがある。「大学の勉強とは何か。すべての科目、すべてのゼミでやってることに大きな意味がある。それは単位をとるためとか卒業するためという問題ではない。講義やゼミを受ける中で、今まで読めなかった文章が読めるようになり、いままで書けなかったような文章が書けるようになり、いままで考えられなかったようなことがきちんと論理立てて考えられるようになり、いままで話せなかった内容を話せるようになる。それこそが勉強の目的である。そうなれば、就職活動の時に、エントリーシートがきちんと書け、グループディスカッションでも立派と話すことができ、グループの参加者が言うことをきっちりとまとめられ、面接でも堂々と自分が勉強してきたことを話しできるようになる。つまりは、大学の勉強とはあなたがたが就職活動で勝つために4年間かけてやることなのだ。さらに、あなたがたは大学時代にはじめて正しい勉強のやり方を身につける。それは自分に与えられるもの・自分の周りにあるものすべてを利用して自分で勉強するという姿勢である。こういう勉強のやり方が身につけば、就職後もあらゆる機会を捉えて自分で学び続けられる。その結果、当然出世する(笑)。自分が考えもしなかったような地位に昇進する。そういうことのために大学の勉強はある。また、大学自身もあなたがたにそういう力がつくようにこれから改革を進め、すべての教員がすべての授業の内容を改善していく。まだ大学の教育はあなたがたにとって不満を持つ内容があるかもしれない。しかし、すべての科目・ゼミをそういう気持ちで勉強してほしい」

同じことを、高校の先生は次のような表現をした。「高校生に伝えていることは、勉強とはセンター入試で得点をあげるためだけにするものではない。社会に出て役に立つことだから勉強すべきなのだ、と生徒に思ってほしい」と。

つまり、キャリア教育とは、勉強の目的を、きわめて近い目標を達成するためにあるのではなく、もっと遠くに置くための方法といえないだろうか。目の前の「単位をとる」「卒業する」ということではなく、長い将来を射程にいれて、生涯役に立つものだという意識に変えていくことと言えるのではないか。そして、それはもともと、多くの人にとって「勉強とは何のためにするのか」という原点に立ち返ることではなかろうか。生徒・学生に、勉強とは大人になって社会できちんと生きていくためにするものだ、と理解させることがキャリア教育の目的ではなかろうか。

そのように考えると、キャリア教育とは、我々のような大学にとって、今の多くの学生が持ってしまっている狭い勉強観・学習観の転換を促すものであり、同時に大学教育の意味の転換を図るものだとは言えないだろうか。「勉強とは社会で役に立つ人間になるためのもの」というのは、思い返せば、僕が小学校や中学校の時には先生から言われたことのように思える。こうした考え方は、多くの学生が勉強から逃避している現状において、今一度、多くの学生にまず身につけて欲しい勉強観ではなかろうか。そして、学生にそう実感させられるような内容の講義を大学が提供することなんだろうと思う。