いわゆる「社会人基礎力」に関するメモ

今回の記事は、私の仕事上考えていることを、忘れないうちにメモにしたものです。一気に書いたので読みにくいと思います。
すでに、専門家の間では散々議論されつくされていることだとは思うのですが、「私個人としては、社会人基礎力をこんな風に理解している」という個人的なまとめのようなものです。

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経産省のいう「社会人基礎力」とは、「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力」をあらわす概念である。これには、「前に踏み出す力」「考え抜く力」「チームではたらく力」の3つの力で構成されている。


・この社会人基礎力の源流は、(詳しく調べたわけではないが)OECDが2003年にまとめたキー・コンピテンシーである可能性が高い。OECDは先進国を中心として90年代以降注目されたスキルを「道具を相互作用的に用いる」「異質な人々の集団で相互に関わりあう」「自律的に行動する」の3つにまとめている。
・社会人基礎力もキー・コンピテンシーも、いずれも、「課題」「人」「自己」という3つの観点から、知識基盤社会に必要となるスキルを概念化しようとしている点で共通する。時期的に言っても、社会人基礎力概念はOECDのキー・コンピテンシー概念を踏まえているといってよい。
・こうしたスキルが注目されるようになったのは、全世界でグローバル化とIT化が進行し、知識基盤社会の到来とともに、知識の短命化、将来の不確実性の増大が起きているからだと説明されることが多い。だから、小学生から社会人まで、「知っていること」ではなく、認知的側面、情意的側面、社会的側面を含めた「できること」の指標提示が進行しているのである(松下佳代)
OECDは、このキー・コンピテンシーを「単なる知識や技能の習得を越え、共に生きるための力を身に付け、人生の成功と、良好な社会を形成するための鍵となる能力概念」と位置づけている。
・キー・コンピテンシーは、「ジェネリック・スキル(汎用的技能)」と呼ばれることも多い。つまり、「あらゆる職業を越えて、社会で生きていく上で生涯必要となるスキル」という意味として理解されている。要するに、「生涯学習」の観点から、どんな学習経験や社会経験をしようが、小学生から大人までみんなが生涯を通して蓄積していくべきスキルだという位置づけである。これは、学校での学習を越えた広い意味の概念である。生涯教育というのは、そういう意味として位置づけられているのである。
・ところが、日本では「実社会・産業界から求められている能力」であるとか、「近年の学生に欠けている能力」とか、ひどい場合には、「大学で教えてきた知識なんて役に立たないからむしろ社会人基礎力を身につけさせろ」などと理解されてしまっている。本当は、小学校から社会人まで、生涯を通じてずーっと続く努力目標・評価指標という意味であるが、日本では、「最近の経験が足りない若者が大学で身に付けるべきスキル」に矮小化されている。
・社会人基礎力が大事だという企業は、本当は、社員教育の中でこうしたスキル向上プログラムを充実化させないと、言ってることがちぐはぐになる。


・キー・コンピテンシーや社会人基礎力の育成については、「経験」と「ふりかえり」と「ロールモデルの意識」がポイントとなる。要するに、講義で教え込める知識ではなく、「体験」が重要となってくる。
・だから、社会人基礎力は、教室のみでつくものではない。課外活動、サークル、アルバイトなど4年間の大学生活の総体として身につくものである。ある意味、授業なんてまったく出なくても、社会人基礎力だけ身につくということは十分ありえる。広い意味で、社会人基礎力は大学教育を必ずしも必要としない。
・そこを無理やり大学の個別の授業の中だけで評価しようとするとおかしなことになってくる。


・学校の授業の中で、「評価」はものすごく重要である。
・他方、社会人基礎力の最大の問題も「評価」なのである。これらは数値化することが大変難しい能力である。指標は提示できるものの、それをどう「評価」に落としこむかは、最大の難問であり続けると思う。
・もちろん、ペーパーテストというか複雑なアンケートのようなもので、コンピテンシーを客観的に把握しようという試みはなされているし、ある程度それは成果を上げていると思う。
・しかし、たとえば「社会人基礎力グランプリ」は評価基準を公開していないと聞く。それは、この概念の根本的な所で、客観的な評価が難しいという問題があるからだろう。
・特に大学の教員が、教室の中で学生の社会人基礎力を評価することは大変困難である。授業の評価基準に社会人基礎力的なものを含めたとしても、それを点数化することがうまくいっている事例は少ないと思われる。


・こうしたスキルは、教員が子どもや学生を長い時間かけてみていけばだんだんと見えてくるものである。それが小学校で言えば通知表の「所見」にあたる。1年間、子どもをずっと観察している小学校の教員であれば、子どものコンピテンシーは、もしかしたら親以上にきちんと評価できる可能性がある。
・他方、大学で週1回の講義程度で見えてくる学生の社会人基礎力などは、あてにならないことが多い。特に二十歳前後の学生は、教室での演技がとてもうまい。教員は学生の一面的な部分しか見ずに評価している可能性がある。
・理系であれば研究室の指導教官は、昼夜を問わず指導をするので、かなり長い時間かけて学生をみている。そうであれば、学生の専門能力だけでなく、コンピテンシーも把握できるだろう。だから、理系は研究室の指導教官が「推薦状」を書けるのである。文系で、週1回90分しか学生と会わないような教員は、よっぽど注意深く観察してる教員以外は、通常は推薦状なんてかけないはずである。


・教員が社会人基礎力を評価するのは難しいことはわかった。では、「学生自身は自分の社会人基礎力を把握できるのか」という面がある。
・これは「ふりかえり」のことである。「ふりかえり」とは、「自己評価」のことである。体験を行った後で「ふりかえり」をすることによって、3つの能力は伸びていくとされる。自己認識のためには、他者の視線が必要になってくる。だから、自己評価をするには、相互評価や教員からのコメント等が必要になってくるのである。多面的な評価と「照らし合わせ」ながら(田中耕治)自己評価は行われるべきなのだ。
・別の角度から見ると、「ふりかえり」能力自体が「メタ認知」レベルの高さ・深さを表しているともいえる。深いふりかえり(=深い自己認知)ができること自体が、社会人基礎力の高さだと捉えることもできる。
・だから、大学生ともなれば、小学生のように教員による他者評価(所見)に依存するのではなく、自己評価ができるようにならなければいけない、とされるのである。自己評価ができること自体が精神的な成熟度のあらわれである。
・自己評価も長い時間をかけて見えてくるものである。だから、その時その時のふりかえり、暫定的なものに過ぎない自己評価をポートフォリオに溜め込んでいく必要があるのであって、それらを後から見返すことでさらに深いふりかえりにつながるのである。
・そのために社会人基礎力やキー・コンピテンシーをルーブリック等で明示化し、学生に示すことには、ある程度意味があると思う。学生にこうしたスキルを提示し、その観点から経験を振り返るクセをつけさせることは、大人として成熟していく過程で、そして、生涯にわたって社会で生きていく上で、ある一定の層の学生に対しては必要なことだと思う。
・現在の(特にユニバーサル)大学では、コンピテンシーにかぎらず様々なスキルが欠けている学生が入学し、そのまま卒業する可能性がある。だから、正課教育の中で、あるいはキャリア教育の中で、社会人基礎力の重要性を教え、ある程度ふりかえりをさせる、つまり、コンピテンシーを「意識的に」育成することは、いくつかの留保条件をつけた上で、全否定できるものでもないと思う。現状は結構悲惨な状況であることは分かってはいるが。


・しかし、もう一度言うが、社会人基礎力やキー・コンピテンシーは客観的な数値化が大変難しい能力である。
・社会人基礎力は「大学のみで育成する力」でもなければ、「客観的な数値に落とし込み、成績評価に組み込む」ことができるたぐいの力ではない。
・大学の授業の中で無理やり数値化しようとしたり、ましてや成績評価に組み込こもうとすることは、ある意味教師の思い上がりであり横暴であるとさえ言っても良いのではないだろうか。「オレは人を見る目があるから、じっと見ていれば、学生の社会人基礎力をちゃんと評価できる」なんて言っている人に限って、茶坊主に取り囲まれていい気になっているだけのことが多い。
・社会人基礎力やキー・コンピテンシーのみが、社会で必要なスキルであるわけではない。アカデミックな専門的スキルや、高度職業スキル、あるいは教養など、いずれも社会で有用なスキルであることは忘れてはならないと思う。だからハイパー・メリトクラシーを批判する本田由紀の主張は、現状をみれば正当性があると思う。


・さらに重要な点は、「ふりかえり」能力とは、言語表現能力そのものであることだ。言語能力が低ければ、メタ認知能力は必然的に低くなる。もちろん、言語能力が高ければメタ認知能力が高くなるというものではないが、メタ認知は、言語能力に依存する部分が大きい。
・就活の時に企業は学生の社会人基礎力が大事だということが多いが、採用担当者は学生の社会人基礎力を直接観察できるわけではない。それは、文章や口頭の言語表現を通じて理解するしかない。学生の行動を直接長い時間かけて観察するような採用方法は普通は取れない。
・だからエントリーシートを「盛る」ことと面接対策に学生は命をかけるのである。それで採用担当者のウラをかけると思っているからだ。それはある程度あたっている。同じ経験をしても、非常に説得力のある言葉でその経験を表現できていたら、当然評価は高くなる。それは就活対策というトレーニングである程度可能なのである。


・しかし大学教育に携わる人間としては、もっと根本的なところに立ち返って、社会人基礎力やキー・コンピテンシーが結局のところ「言語能力」「文章表現能力」と深く関わっている点に注目すべきである。
OECDは、キー・コンピテンシーのうち、「課題」面を中心に、テストで測定できる能力をPISAとして独立させた経緯がある。PISAは主に、知識活用力(リテラシー)を扱っている。同様の分野にAHELO、PIAACがある。
・社会人基礎力を伸ばすためには、その必要条件である「言語能力」「文章表現能力」を伸ばすことをもっと重視すべきだと思う。
・それは文章表現科目といった授業を通じて伸ばすこともできる。初年時教育においては重要なアプローチである。
・もっと重要なのは、専門教育を通じて深い言語能力をつけるという大学固有のアプローチである。例えば「卒論」を書くことは、必要条件としての究極の社会人基礎力育成プログラムになり得るはずだ。
・最近は、卒論が書ける学生が少なくなったからといって、卒論が廃止された大学が結構あるようだ。だが、大事なのはむしろ逆で、卒論が書けるようになるために、初年次からどのようにカリキュラムを組み立てていくか、という視点が必要だろうと思う。実際にそのようなアプローチを取っている大学は増えているように思う。


・社会人基礎力については、その育成方法や評価方法など、多くの大学でもっと議論されていくべきだろう。「文科省は、経産省由来の社会人基礎力という言葉を嫌うから、対文科省の申請書には使わない方がよい」などという、どうでもいいことを議論するヒマがあったら、もっと大切なことがあるはずだ。
文科省のいう「学士力」は、「専門的知識とジェネリック・スキルの両方を大学の教育目標に含めるべきだ」というメッセージであると解釈できる。「①知識・理解」は深い専門知識、「②汎用的技能」「③態度・志向性「④統合的な学習経験と創造的思考力」は、広義のジェネリック・スキルである。これらが相互に結びついて渾然一体となっているのが、実は「学士力」の正体だと思う。
・学士力の分類が他のジェネリック・スキル論と比べて独特の分類なのは、初等・中等教育の学習指導要領との連動性を意識しているからだと思う。学士力の分類は小学校の通知表と似たところがある。だから、小学校から大学までの大きな流れの最後の部分として「学士力」を位置づけているのではないか。「学士力」は「生涯学習」の流れの中の一つの通過点として捉えられているのだろう。
・だから、経産省文科省も大学教育は生涯学習のプロセスの一つという趣旨の部分で大きくずれているわけではない。
生涯学習という考え方そのものを最も鋭く批判しているのが芦田宏尚先生(大変お世話になっているので呼び捨てはできません)だろう。確かに、生涯学習の観点を強調すればするほど、学校教育の独自性や存在意義は希薄化していくのである。


・結局のところ、大学で社会人基礎力を育成しようとするならば、「問題を解決するために知識を使いこなせる力」「自分の意見を述べるための知識、意見を述べるための考え方を育成する」ことを、もっと見据えるべきではないかと思う。それが「大卒人材としてふさわしいレベルまで学生を引き上げる」一つの方法だろうと思うのだ。