4つの小学校を経験して言えること

今日話題になった小学校の教育に関するブログ記事を読んで、自分の小学校のことを書きたくなりました。ほとんど自分語りですので、興味がない人はスルーしてください。

僕は4つの小学校に通っています。

 最初に入学した小学校は地方都市の真ん中にある創立100年を超える古い小学校でした。校舎の床はタールを染み込ませた板張りで、転んだら真っ黒になるような小学校です。冬には教室の真ん中に石油ストーブが置かれるような、なんだか戦前の雰囲気を漂わせた小学校でした。先生たちも厳しく、礼儀や姿勢などを叩きこまれました。授業が始まる前は手を背中にまわして座ったまま気をつけの姿勢をします。先生たちは権威的でした。給食もおしゃべりなど言語道断で、一人で静かに前を向いて食べるのです。時間内に食べ終わらないといつまでも残されて、ある子は5時ぐらいまで一人しくしく泣きながら教室に残されていました。この学校では、勉強ができる子どもは褒められていました。クラスで最も勉強ができる子は学級委員長になっていました。この学校には1年半通いました。

 2つめは親が家を新築したので、川を渡り少し離れたところの小学校に転校しました。この学校は当時はなかなか困難な課題を抱えていました。小学3年生になってもひらがながきちんと書けない子どもが結構いました。この学校は1年しか通っていませんが、その中で受けた授業内容は全く覚えていません。授業参観でも、なぜか先生自身が習い事をしているお琴を披露するという、今から考えるとよくわからないことをやっていました。きっと授業が成立しないからそんなことをやって時間を潰していたのでしょう。もちろん愛情深い先生もいました。しかし、この学校では、勉強ができることはむしろバカにされました。クラスのいじめっ子がクラスを牛耳っているような学校でした。

 3つめはカナダです。父親の仕事の関係で1年間カナダの地方都市の小さな公立の小学校に通いました。幼稚園の時もカナダに2年いたのですが、小学校のうちに完全に英語は忘れてしまっていました。しかし、カナダの学校は毎日が楽しかったという思い出しかありません。様々な人種の子どもたちがいました。マイノリティに対する差別的な言説は絶対に許されませんでした。先生たちはみんな、小学校で唯一の外国人である僕をとても尊重してくれました。子どもたちはみんな人なつっこく、すぐにみんなが友だちになってくれました。日本を知るイベントを開催してくれたこともあります。英語ができない僕に対しては、年配の女性の先生が時間を作ってくれて、みんなが国語(英語のことです)をやっている時に別の教室で1学年下のテキストをつかって補習をしてくれました。制服もなく何を着ているかとか全く誰も気にしません。教室の掃除も用務員さんがやってくれます。気をつけとか礼とか整列とか一度たりともやったことがありません。学校のイベントも、ハロウィーンとかクリスマスとか楽しいイベントだらけでした。冬は校庭のリンクに水を撒けばスケート場になります。ただし、朝一番に教室の国旗に向かって敬礼したまま誓いの言葉をみんなで暗唱し、主の祈りをすることにはびっくりしました(現在では信教の自由の観点からこのような朝の儀式は廃止されているとのことです)。他方、教科書やノートは全部学校において帰り、宿題も殆ど出なかったのが驚きでした。算数は日本と比べて2年ほど遅れている感じでした。先日、成績表を見返す機会があったのですが、所見欄では、算数の能力とユニークであることとユーモアがあることを褒めてくれていました。大人になってカナダに遊びに行くことがあり、当時の先生を見つけ出して会いに行ったら、すごく喜ばれました。

 4つめは元の地方都市の小学校です。その地域の国立大学教育学部の附属小学校に転校しました。県外に1年以上居住した人は編入試験を受ける資格があったため、試験を受けて合格したのです。ここは勉強のできる子どもたちがいっぱいいました。小学生なのに「要するに〜」なんて言いながら授業中に発表するのです。親たちも医者などのお金持ちがたくさんいました。社会科見学でも自動車工場を見に行っても、本社工場と下請け工場の関係性について議論したり、輸出車のスペックの違いなどについても質問したりするのです。他方、1年間日本から離れていただけで僕は帰国子女扱いをされ、「カナダ、カナダ」とからかわれる毎日が続きました。ちょっと机の上に座っただけで、先生から「お前はカナダなんかに行ってたからそういう常識がない」と怒られました。みんなと同じように遊ばないだけで協調性が欠如していると問題視されました。ただ、年間の3分の1は教育実習の先生たちが授業をするので、次々といろんな教育実習生と触れ合うことができました。大学祭に遊びに行くと「先生」たちがたくさんいて楽しかった思い出があります。

今では、海外の学校に通った経験のある人は多いことでしょう。ただ、親が商社などにつとめている場合は、3年とか5年間海外に赴任するので、その間に子どもは完全に現地に適応します。バイリンガルになる人が多いでしょう。僕の場合はそういうことにはなりませんでした。せいぜいLとRの発音の区別がつくぐらいです。

さて、これらの小学校のうち、これからの日本はどの小学校を参考にすべきだといえるのでしょうか? あるいはどこの小学校が大事になってくるでしょうか? 伝統と規律を重視する小学校でしょうか? 自由と自主性を尊重するカナダの小学校でしょうか? エリートを集めて難しい内容の授業ができる名門校でしょうか? はたまた教育困難校でしょうか? 

北米や欧米の小学校を一度経験すると、そこで個人・自由・マイノリティの尊重が徹底されているのに感激し、その価値にあこがれる人が多くなるのは実感としてわかります。いわゆる「生涯学習」や「エリート選抜教育」(実はそれがゆとり教育の真髄だと思います)を推進する人の中には、自分自身が「勉強ができた」がゆえに、「日本の学校に居心地の悪さや息苦しさ」を感じた経験を持ち、「日本の教育では子どもの才能や自主性・自律性が育たない」と考えている人が多いような気がします(あくまで主観ですが)。

日本の教育行政に影響を与える力を持っている先生たちは、外国での大学のPh.D取得も含め、海外の知見が深い人が多いようです。自分自身が、日本の学校での摩擦に悩んだ人も多いことでしょう。

また、「勉強は子どもが興味を持つような内容だけ教えれば良い」「勉強は子どもが得意なことを思い切り伸ばすようにすればよい」と主張する人たちは、「自分がそういう教育を受けていればもっと学校時代が楽しかったはずなのに」という、学校に対するルサンチマンのような気持ちを持っている人も少なくないような気がします。

もちろん、日本でそういう自由な校風の小学校があってもいいと思います。ものすごく才能が豊かな子どもにとっては、普通の学校が足かせになるでしょう。芸術やスポーツの才能がある子どもにとっては、普通の勉強の意味はないかもしれません。極端に勉強のできる神童を集めて教育をする学校も必要だと思います。

ただし、日本の義務教育としての小学校は「すべての子どもに対して平等な教育の権利を保証する」という考え方のもとで教育が行われています。ユニバーサルな教育こそがすべての人の将来を形づくる基礎になるわけですし、それがまわりまわって日本の国力につながるのだというのは、明治以来日本で共有されてきた基本理念だと思います。だから、勉強に興味が持てない子どもに対しても、勉強ができるようになる「回路」がきちんと保証されていなければならないというのは、日本のコンセンサスではないかと思うのです。

実は、進学率が50%をこえ、大学のユニバーサル化が進行することによって、この考え方の延長線上に大学も含まれてこざるをえないのですが、それはまた別の話になりますので、今日はこのへんで。