E君はいかにして大学に進学し、ジャージを脱いだか

全国に大学は780ほどあります。それらの大学にはそれぞれ建学の理念があり、それぞれの教育理念を持っています。主観的な思いとは別に、客観的なレベルでも各大学の位置づけというのはなんとなくあります。

例えば、家庭環境が貧しくても学力が優秀な学生を選抜して教育を行う大学もあれば、豊かな生活環境の家庭の子女を選抜して教育を行う大学もあります。国公立大学はどちらかというと前者です。もちろん、現実はそんなに単純ではないですが、前者の大学は「階層移動」のための学校で、後者の学校は「階層の再生産」として機能していると言うこともできるでしょう。

ただし、進学率50%をこえた日本の大学は、もはやエリートを育成する教育機関と限定することはできません。日本の大学とは「勉強のできる人」か「上位階層の出身者」のどちらかが行く教育機関という位置づけからは、とっくに変化しています。

アメリカの社会学者であるマーチン・トロウは、高等教育への進学率が15%を超えるとエリート段階からマス段階へ移行し、さらに、進学率が50%を超えた高等教育機関をユニバーサル段階と呼んでいます。日本は昭和40年代にマス段階に移行しています。ユニバーサル段階に達したのは平成20年ごろ、つい最近です。

進学率が50%を超えると、大学は「選ばれた人」が行く場所ではなく、「誰もがいつでも自らの選択により学ぶことのできる」場所になってきます。進学率が50%を超えた国は先進国でもたくさんあります。たとえば、アメリカほど多様な大学が存在している国はないでしょう。進学率は70%を超え、コミュニティ・カレッジから世界的レベルの大学まで多種多様です(参考:進学率の国際比較)。


進学率の上昇に伴い、大学の機能分化は必然的にすすみます。その過程で大学のイメージも多様化していく必要がありますが、日本では、まだ大学の機能分化が明白な形で進んでいません。だからこそ、「大学生なんだから〜」とか「大学というものは〜」という言葉がいまだに普通に使われているといってよいでしょう。「大学」とか「大学生」という言葉に、現実とは別に一定の価値基準が残っているといえます。

さて、言葉のレベルではそうなのですが、現実レベルでは「大学」の実態はかなり多様化しています。上位大学の役割は明白です。社会のエリート層を輩出する役割が迫られています。最近「グローバル人材」という言葉には、そうした意味合いが込められているといえます。他方、ユニバーサルレベルにある大学とは、どういう役割を果たしているのでしょうか? 

進学率50%ということは、「勉強のできる人」か「上位階層の出身者」が大学に進学しているだけでなく、「勉強が出来ない人」かつ「上位階層の出身者ではない人」が大学に進学している時代です。こうした「その他多数」の大学の存在する意味はどこにあるのでしょうか?

一例を紹介しましょう。

とある大学で、E君は入学式直後からとても目立っていました。歩き方、しゃべり方、動作がすべて完全にヤンキーでした。椅子に座る時も、普通に座るのではなく、あぐらをかいて座ります。服装は常にジャージです。

そんなE君に、「どこの高校から来たの?」と尋ねると、E君は「ヤン校〜」と答えました。おそらくヤンキーが多数を占める高校ということでしょう。

「なんで大学に来たの?」と聞くと、

「高校を出て力仕事をしてたんだけど、屋内で仕事をしたいと思った」と言いました。「オレは勉強できないけど、大学を出て屋内で仕事をしたい。スーツを着る仕事をしたい。」と真面目な顔をして語るのです。

本人の見た目やしゃべり方はモロにヤンキーなのですが、気持ちはそういう環境から抜け出したいと思って大学に来ているのです。つまり、彼は明確に「階層移動」のために大学に進学しているといえます。「屋内でスーツを着る仕事」という大卒の仕事のイメージが一面的だったり、そう言いながらも本人はもろにヤンキーの行動様式を捨ててないなど、いろいろ突っ込みどころはあるのですが、彼には強い目的意識があります。

もちろん、勉強は今までほとんどしていません。高校の先生からは、授業中に「お前は寝てろ」と言われたりしていました。文章が書けない、漢字が書けないのは当たり前です。そんな彼に対して、勉強が出来ないことでちょっとでも見下した態度を大学教員が取ると、彼はあっという間にふてくされ、激しく大学に反発することでしょう。じっくりと彼の思いを聞いてやり、なおかつ大学の勉強が彼にとってなぜ必要かをきちんと伝え、大学の勉強がどんなにつまらなく思えても、歯を食いしばって勉強すべきだという指導を息長くやっていく必要があります。

地方のユニバーサル大学には、そういった学生が一定数入学しています。彼は珍しい存在ではありません。私は、こういう学生に対して、胸を張って入学を受け入れ、きちんと教育しようという意気込みを示す大学が日本に絶対的に必要だと考えています。

さて、こういう学生は、大学1・2年はずーっとジャージで登校しています。ジャージといってもスポーツブランドのジャージではありません。体育会の学生はジャージは当たり前ですが、それとはちょっと違います。なんか変な刺繍が背中に入っていたりするのです。

そういう学生の中には、3年生ぐらいからジャージを脱ぐ学生が出てきます。「最近ジャージで大学来なくなったね。」と聞くと、「うーん、やっぱりね…」などといって言葉を濁すのですが、大学に通っているうちに、様々な学生と友人になり、話をしていく中で、ジャージで大学に来ることが不自然だということに気付くようなのです。

私はこの段階で、大げさかもしれませんが、「大学の勝利だ」と思います。つまり、彼は象徴的な階層移動を果たしたのです。『マイ・フェア・レイディ』という映画は、「上位階層のしゃべり方をマスターできれば、上位階層になれてしまう」という言語の逆説的な象徴機能がテーマの傑作ですが、同じように、ヤンキー出身の学生がジャージを脱ぐことは、ある意味、大学によって、彼自身のそれまでの階層意識が変わったということの象徴なのです。

私は日本の中堅層がきちんとした教育を受け、家庭環境や地域の環境を抜け出し、日本のマジョリティとして自立した生き方をするために、ユニバーサル大学の役割は非常に大きいと思っています。様々な地域から、様々なバックグラウンドを持った「勉強が出来ない」かつ「上位階層の出身者ではない」学生が入学し、大学の勉強を通じて、それまで書けなかったような文章が書けるようになり、それまで読めなかったような文章が読めるようになり、それまで考えもしなかったような考え方を身につけ、最終的にスーツを着る仕事につく、というのは、日本の大学の一つの存在意義ではないかと思っています。

それがユニバーサル大学の存在意義の一つだと私は強く思います。

E君は、法律学入門の授業を受けて、友だちと「アリストテレスって結構いいこと言ってんじゃん」なんて言いながら教室を出て行ったそうです。大学に来なければアリストテレスなんて一生知ることがなかった彼のような学生が、アリストテレスの考え方に触れ、その考え方に対して何かを感じ取ること自体、進学率が上昇した現在だからこそ、起こり得ることではないかと思うのです。「(勉強が)できない学生ほど大学に行くべきだ」と芦田宏直先生は言っています。だからこそ、ユニバーサル大学においてきちんとした教育改革を進めることはとても大切なことなのです。

E君がジャージを脱ぐ日も近いかもしれません。