とある自伝的小説より(フィクションです)〜「大学の勉強は仕事にどう役に立つのか」

退学者問題は、結局のところ、「大学の勉強は社会に出た時にどう役に立つのか」という問題と深く関わっています。目の前の学生に対して、説得力を持った説明を教員が組織的に行うことができれば、それだけで退学率は大幅に変わってくるはずです。退学者問題に直面している大学は、初年次教育を担当する教員たちだけでも、それをやる必要があると思います。

さて、そんなことを考えているうちに、1年生向けの「文章表現科目」で作成した教材の一つを思い出しました。facebookには一度掲載したことがあるのですが、ブログに転載します。

ちなみに、文章表現科目とは、初年次(1年生)の科目で、文章の書き方やレポートの書き方等を教える科目のことです。多くの大学でこの科目の開設が増えてきています。ウチは3年前から導入してます。

ウチの授業では、3コマを1ユニットとして、いろんな資料を読ませたり、ディスカッションさせたりしたうえで、800字程度の文章を書かせるという、とてもユニークな仕組みをとっています。そういう内容の授業を4名の教員が同一内容で同時進行させています。この文章表現科目の内容それ自体について、近日中にひつじ書房から出版される『大学生のための日本語リテラシー』で紹介する予定です。

さて、今年度の春学期に扱ったテーマの一つが、実は「大学の勉強は社会に出ていかに役に立つのか」でした。このテーマは、文章表現科目でありながら、キャリアデザイン的な要素を含んでいます。日米の大学生の勉強の時間の相違といったデータや、教育心理学者の文章などを読ませながら、学生自身にこのテーマを考えさせ、文章を書かせました。

教材を作成する時、自分たちが望むような内容の素材が見当たらなければ、我々はしばしば自作します。以下に紹介するのは、そんな風に私が自作した文章です。

人文系・社会科学系の学部は、しばしば「大学で勉強することは社会に出たら役に立たない」と言われることが多く、実際にそう思ってしまう学生も多いのですが、そうではないよというメッセージを込めて作成したものです。退学者問題と絡めてこの文章を読むと、なかなか味わい深いと思うのですがいかがでしょうか?

(念の為ですが、この文章はフィクションであり、私が書いたパスティーシュであることをご了解ください)

                              • -

以下の文章は作家郡ようこの自伝的小説の一部である。

 私は、新橋にあるちいさな出版社で編集の仕事をしている。出版社というとなんだか華やかそうなイメージがあるけれど、作っているものは企業のチラシやパンフレットだし、会社の事務所が入っているビルもとても古い。会社には、ガハハとよく笑う太った社長と、細くて背が高いのに腰の低い専務と、社員が5名いる。あとは経理のおばちゃんもいる。社長はいつも景気が悪いとグチをこぼしている。

 私は大学では近代文学を専攻した。自分で言うのもなんだが、大学ではわりとまじめに勉強したと思う。卒論は太宰治のことを書いた。でも、友人たちが就職活動をやっていたのに、私はぼおっとしていて、いつの間にか卒業する時期になってしまった。それを見かねた親が、知り合いのつてをたどって、今の会社を探してくれたのだ。
 私は特に出版社で働こうなんて考えてなかった。編集の仕事がなんなのかも全然知らないまま、社長から「日本文学をやったんだったら、文章は書けるだろう、ガハハ」といった感じの簡単な面接だけで採用されたのだった。提示された給料はすごく安かった。でも、他に行くところがないから仕方がない。しばらく働いてみようと思った。

 仕事はわからないことばかりだった。ある会社の新卒採用のパンフレットをはじめてまかされた時には、途方にくれた。相手先との打ち合わせは先輩が手助けしてくれたけれど、先輩は忙しいみたいで、あとは一人ですすめてくれ、とほうりだされたのだった。
 しかたがないので、他のパンフレットを見たり、図書館に行ってデザインの本を調べたりした。あるデザインの本には、「広告とは、目指す相手に届けるメッセージだ」と書いてあった。私はそれまで、パンフレットはきれいな写真と図が入っていたらそれでいいのかと思っていた。だからこの一文を読んでうむむとうなったのだった。
 そこでもう一度、相手の会社の担当者に話を聞いてみた。すると、
「ウチは地味だけど作ってる製品もいいし、雰囲気も良くていい会社なんだ」と言われた。ほかにも、
「どんどんアイディアを出して自分から動く人に来てもらいたいんだよなあ。ウチみたいな会社が生き残るためには、みんながそんな風に仕事をしないとね」とも言っていた。
 最初に渡された資料は、会社の業績とか、その会社が作ってる製品の細かい説明ばかりだったので、私はあれっと思った。

 私はその会社で製品を開発している人に話を聞くことにした。メガネをかけた地味な年配のおじさんだった。でも、話を聞くと面白かった。会社のみんなでお酒を飲んでる時に、突如アイディアを思いついたのだそうだ。そこから飲み会を切り上げてみんなで会社に戻って、一気に設計図までつくったらしい。社員はみんな仲が良さそうだった。
 こういう会社は小さいけれど楽しそうだなあと思った。だから、パンフレットのタイトルは、「こんな小さな会社だけど未来がある――みんなのアイディアを活かす職場」とした。中身はそこから自然に決まっていった。写真も図も少ないけれど、みんなが何のために仕事をしていて、どんな風に協力しあってるのかを具体的に書いた。開発者のおじさんと若い社員の対談も載せた。大学の友人に見せてダメ出しをしてもらって、直したりもした。

 できた案を持って行くと、相手先の担当者は「こういうことを伝えたかったんだよ」と言ってくれた。うちのガハハ社長も喜んでくれた。「やっぱり大学でちゃんと勉強した人は強いね、仕事のやり方がわかってるなあ、ガハハ」と言ってくれた。私は大学でそんな勉強したことないのにと思ったけれど、でもちょっとうれしかったのだった。


(出典)郡ようこ(注意:実在しません)『別人「郡ようこ」のできるまで』紀尾井出版

                          • -

実際の授業では、この文章を読ませた上で、次のような問いを出し、内容理解を確認しています。

【問1】主人公が企業のパンフレットを作成する際に、行った仕事を、次のカテゴリごとに簡単にまとめなさい。
(  情報収集  )
(  情報分析  )
(  課題発見  )
(   構想   )
(   表現   )


【問2】 ガハハ社長は、「やっぱり大学でちゃんと勉強した人は強いね、仕事のやり方がわかってるなあ」ほめてくれたが、それはなぜか? 社長は、大学の勉強と仕事のやり方がどうつながっていると考えているのだろうか?

                        • -

ちなみに問1のカテゴリとは、「知識活用力」「課題解決力」のプロセスであり、実は、この文章表現科目そのものの「達成目標」としてシラバスに記入している用語なのです。このカテゴリは、入門ゼミの達成目標でもあり、学部全体の達成目標の一つでもあるのです。というわけで、この文章の内容が、この授業や学部の達成目標と密接に結びついているという、いわば入れ子構造になっているのです。

表面的には「役に立たない」と思われている学問分野でも、実は非常に重要な所で役に立つのだ、だからこそ大学で勉強する価値があるのだ、ということを目の前の自分の学生に納得させられるストーリーやロジックとは、例えば、こんな内容ではないかと思うのです。