新米教員、新入生研修を乗っ取る(その1)

大学の教員はしばしば「自分の専門分野を学生がどれだけ理解できるか」で学生を評価しがちです。でも、それだと、実は、東大・京大の学生以外はみんな劣等生になってしまいます。そうではなくて、単純に、学生が今までできなかったことができるようになり、何かを達成して自信を持つ瞬間を見て、「こいつは成長したな」と思えることが大切ではないかと思うのです。そういう教員が少ないのは日本の大学にとって非常に不幸だと思います。もちろん、そうではない教員も最近はずいぶん増えたのも事実ですが。

僕は、学生がどんな能力であれ「成長する瞬間」あるいは「一皮むけた瞬間」に居合わせたいと思っています。できれば、自分がそういうきっかけを提供したいと思っています。これが僕の教育の原動力のひとつになっているような気がします。

大学教員として赴任する前に、とある大学で研究生という肩書きをもらってぶらぶらしていた頃、慶応SFCとか東工大とか一橋とかの大学の学生と一緒に、ウェブ関係のプロジェクトをこなした経験があります。今でいうSNSみたいなものとかはてなブックマークみたいなものを僕が知り合いの企業から受注してしまい、スクリプトを書いたこともない、そしてまるで自信のない学生たちと一緒にああでもないこうでもないと悩みながら、納期までになんとか間に合わせなきゃと胃が痛くなるような気持ちでプロジェクトに取り組んだのです。

僕は、必然的にディレクターとして学生たちを指揮する立場になりました。自分はディレクターで、学生がプレイヤー。ある意味、上司と部下の関係ともいえます。ただ、普通の会社と違うのは、僕を含めた全員が初心者で(クライアントにはそうは言えないのですが)、全員が納期に向けて一心不乱にがんばる立場に追い込まれるという点です。しかも、すでに前渡金を受け取っている以上、「できませんでした」という選択肢はありえません。たとえ行き詰っても、なんとかできる方法を考えなくてはいけないのです。また、納期に間に合わなかったとして、「いや、学生の能力が低いから」というのは何の言い訳にもなりません。自分の管理能力が問われるだけです。

そういう修羅場を経験しつつ、当時から「これってある意味、理想的な教育環境だな」と思っていました。チーム全体が切羽詰った環境に置かれると、その時はみんなでイライラしたり、不満をぶつけたり、いろんなことがあります。しかし、無事にプロジェクトを乗り切ると、その反動といえるくらい、一気にチームの結束力が高まります。また、そういう修羅場を乗り越えた学生は、自信に満ち溢れるようになります。打ち上げの席で、きらきらひかる目でしゃべりまくる学生を見て、こいつは社会に出ても成長し続けるなと、僕も安心したものです。「成長」ってこういう事なんですよね。最初は「大丈夫か」と思うほど自信がなくておどおどしている学生が、プロジェクトを乗り切ると見違えるようになります。それとともに、僕との関係も一気に深まります。信頼関係で結ばれるというのはこういうことなのかと。

その後、僕が大学教員としてこの大学に赴任して以来、僕は「ウチの学生とプロジェクトをやりたい」とずっと思っていました。プロジェクトをやれば、そして僕がディレクションをきちんとすれば、学生は見違えるように成長するはず、というのは確信を持っていました。

ところが、当時、ウチの大学では、学生の能力に信頼を持つ教員はきわめて少なかったと思います。「学生に任せることなんてできないよ」と、若手教員ですら言っていました。「学生は何をするか分からない。だから学生に任せてはダメだ」と。だから、当時は、入学後の宿泊研修からオープンキャンパスの企画からホームページの活動紹介にいたるまで、何から何まで教員がすべて仕切っていました。

そういう言葉を、学生ととっても近い関係にいる教員ですら言っていたのが、僕はとても残念でした。ああ、この人達は「学生に全てを一任する」ことと「学生と一緒にプロジェクトをやる」ことの区別がつかないんだなと。「学生に一任する」とは、学生を「出入りの業者」として扱うことと同じだと僕は思います。で、経験も何もない学生が、仕事を一任されて、何かができるわけがないじゃないですか。「やっぱり学生はダメだ」といっても、それは教員のディレクション能力が欠如していることのあらわれなのです。

今から思えば、当時の大学教員は、学生の質が一気に変わる真っ只中にいて、新しい学生の扱い方に戸惑っていたのだと思います。それまでは、学生を大人として扱っていて、また学生もそう扱われることを望んでいたのが、突然、2000年頃になって、学生がそうじゃなくなったことに呆然としていたのかもしれません。ただし、以前は学生が大人だったというのも僕は幻想だと思います。単純に学生も教員も「大学とはこういう場所だ」という共同幻想を共有していただけのような気がするのですが。

学生を、未開花だけれど潜在能力を持っている一人の人間として信頼し、一緒に困難なプロジェクトに取組むというスタンスは、理系の研究室だと当たり前のことでしょう。しかし、文系の先生たちは、そんなふうに学生の能力を捉えるのが苦手なんじゃないかと思っていました。そういう教員たちは、心の底では学生を信頼していません。で、それは学生にすぐに伝わるのです。学生と教員の間の冷え冷えとした関係は、相互不信から生まれてくるのです。

そういう不幸な関係にもとづいた例として、当時の新入生研修があげられます。あまり思い出したくないのですが、当時の新入生研修は、入学間もない新入生を近くの観光地に連れていき、ホテルに缶詰にして、一日中、レクチャーをするという悲惨極まりない内容でした。講義の内容も、「大学生になったからには自己責任が大切です」とか「大学生は真面目に勉強しなければいけない。バイト漬けはいけない」とかなんとかかんとか、そういう説教みたいなものを延々と繰り広げるのです。

これは、新入生を瞬時に大学に対して失望させるためのとってもよい方法だなあと心底思っていました。で、新入生たちは、こうした講義を聞きながらあっという間に爆睡です。そして、夜になると目が爛々として、みんなが深夜徘徊を繰り返す。。。で、教員たちは夜回りをして、うろうろしている学生を捕まえてまた説教をするという。。。

僕自身は、自分のゼミに所属した新入生に対して「こういうのやってられねーよな」といって、一緒にホテルを抜けだしてコンビニに行くという、共犯関係を演出して学生と距離を縮めるテクニックを使えたので、ある意味ありがたかったのでしたが。

それはともかく、当時の僕は新米教員ながら、こういう不幸な研修はいつかやめさせたいと思っていました。「学生を信頼して、一緒に仕事をする中で、もっとよい研修ができるものならしたいな」と。で、ほどなくそういう機会に恵まれます。僕の同級生から「ウチの会社が一橋大学ICS(国際企業戦略科)の面白い研修をやってるんだけど見に来ない」と誘われたことで、その後の僕の教育上のひとつの大転換が訪れるのです。

長くなったので、続きはまた!